作者が純粋に一人で、作品が出来上がる小説や漫画では、
(編集者が介在するので厳密には一人ではないが、
建前上は一人で無から有をつくったとされる創作物語)
メアリースーは100%作者の責任である。
大人が楽しむべきものに、
子供の未熟を知らずに紛れ込ませている、
無知と無自覚によるものだ。
ここまではいい。人生をちゃんと生きてから、創作に戻ればいい。
創作はある種の箱庭療法だから、精神疾患にもちょうどいい。
(療法記録に世間的意味があるかというと、まずない。
従って、ちゃんとしたものでない限り発表するべきではない)
僕らが出会う問題は、
複数の意図が絡んでいる場合の物語創作である。
いわゆる、商業作品(CM、ドラマ、映画。アニメは専門外なのでここでは想定しない)
にメアリースーが出現しやすくなっている。
こちらの方が根深い。
CMの例で解説するのが最も分かりやすい。
CMの作者は誰か。
こんな簡単な問いに、答えがない。
CMでは作者が明記されない。
商品のメーカーは明示されるが、
CMそのものをメーカーがつくっていないことぐらい、
ちょっと業界を知ればわかることだ。
「コマーシャルフォト」「ブレーン」などのいわゆる業界誌には、
各CMのスタッフリストが掲載されている。
クリエイターと呼ばれる人や、監督名もわかる。
CMの内容は、まずクライアントと呼ばれる、
「CMを打ちたい会社」から、広告代理店に依頼があることからはじまる。
広告代理店には、クリエイターやプランナーという人がいて、
クライアントのやりたいことや、世間の面白いことを考えた上で、
おおまかな内容を決める。これを業界では「企画」という。
これが監督の手に渡り、更に改稿してよりよい表現やテーマに煮詰めて、
CMというのは御披露目される。
(前項の俳句の例を見よ。元の俳句が企画の例、添削後が監督のレベルだ)
バブルの頃は何でもありだから、
話題さえ呼べればそれが正解だから、
クリエイターや監督たちは内容勝負をした。
制作費も無限にあった。
ところが不景気になって予算も半分や1/4になり、
クレーム社会になると、
内容へのクライアントチェックがうるさくなってくる。
そもそも我々はこうしたくて依頼しているのである、
広告代理店はそれにサービスをせよ、という力関係になってくる。
我々は億の金を出しているのに、
思ったようになっていない、と文句を言うのだ。
そもそもテレビは水物であり、何が受けるかなんて保証はない。
コストをかけただけ比例したリターンがあるわけでもない。
それは、テンプレのある工業製品ではなく、
新しいオリジナルを作るからである。
2000年代から、広告代理店の競合プレゼンが増えた。
名目はよりよい内容を募る為だが、
実質は俺の言うことを聞く広告代理店を探すためだ。
クライアントにメアリースーがいる場合、
どんなに広告代理店が説得しても無駄だ。
メアリースーを生むのは、人間としての未熟と、
作家としての未熟である。
クライアントが、「こういう表現がしたいんだもん」というのに対し、
「それは恥ずかしい事ですよ。このようなものが世間で認められる大人の娯楽というものです」と
いくら言っても無駄である。
そのクライアントが大事であればあるほど、
その未熟を指摘し、導いてあげるべきだが、
メアリースー症候群の人には、それは怒られているだけに過ぎない。
従って、「もっといい案を提案してくれる他の広告代理店に頼む」ということになる。
このときの「もっといい案」というのは、
「ぼくの考えたさいきょうのCM」に近いことに過ぎない。
つまり、クライアントが考える内容に対して、
広告代理店はサービスをしなければならない。
これはテレビ作品としておかしい。
テレビは大衆向けのものだ。
大衆にサービスすることはいくら工夫してもよいが、
大衆でないものにサービスすることは、
大衆に背を向けることになる。
つまり、億の仕事が欲しいが故に、
広告代理店はクライアントにサービスをし、大衆に背を向けるのだ。
クライアントが、表現というものに厳しく自己を律し、
あらゆる作品や芸術を正しく評価し、
未来に流行するものを分かっているのなら、
なんの問題もない。
しかしそうではない。彼らは一メーカーのサラリーマンにすぎず、
僕らのように年間映画を50本見て、芝居も見て、音楽を聞き、
漫画を読み、流行に触れ、古今東西の芸術に触れ、
毎日何がいいかを議論している訳ではない。
作家としての痛みや反省を日々繰り返して、
よりよいものをつくる努力をしているわけではない。
だから、広告代理店がいいものとは何かを、
示してあげなければならない。
示しても分からなければ、一度任せてくださいと言うしかない。
メアリースー症候群の人は、いいものを見る目がない。
ぼくの考えたさいきょうのCMかどうかしか興味がない。
だから、それをつくる人を探している。
本当に謙虚な大人なら、専門家にある程度任せるべきだ。
専門家が何をするかを知らないのに、専門家に頼むのもそもそもおかしい。
おかしいのに、この世では億がそのように動いている。
最近、クライアントにだけではなく、
広告代理店内にも、表現の最終責任者である監督にも、
メアリースーが増えた。
昔なら大人が「未熟者が」と叱れたのだが、
「クライアントにサービスすること」が業界の構造で当然となってしまった以上、
未熟なものがそのままロールアウトすることになってしまった。
未熟な者は、熟を知らない。
サービスされることが当たり前の人は、
苦労して自得した経験を知らないように。
表現とは、「ぼくのやりたいことをつくる」のではない。
観客が魂を奪われ、夢中になり、考えたり深く感銘を受けるものをつくることだ。
だから最近のCMは、詰まらない。
詰まらないのは、予算が落ちたわけでも、
クリエイターが減った訳でもなく、監督の才能がなくなったのでもなく、
メアリースーにサービスするからだ。
ドラマでも同じ事が起こっている。
メアリースーは、テレビ局のプロデューサーに既にいる。
ドラマの企画をする人は、脚本家ではない。プロデューサーだ。
プロデューサーが、「こんな感じのものが面白い」と企画をつくる。
その面白いが既にメアリースー的に面白いでしかない。
出演者ありき、世界観ありきの企画を面白いと思ってしまう。
それを脚本家に書いてくれという。
志ある脚本家なら、いやいやそれはおかしいですよと忠告する。
謙虚な人なら、それはこのような面白さに変換したほうがいい、
と丁寧にやるかも知れない。
しかしメアリースーは未熟なので、そんな分かってない脚本家ではなく、
分かってる脚本家に仕事を依頼する。
彼らが依頼する脚本家は、何でも言うことを聞く文章を書く人だ。
そういうウンコ人間の書いている脚本家の名は、
ウンコドラマのスタッフリストを見ればわかる。
代表は実写ガッチャマンを書いた男だ。
野沢尚は、この状況を憂いて追い込まれ、自殺した。
まともな人間なら、この状況に耐えられないだろう。
キャストのごり押しが問題なのではない。
漫画原作が問題なのではない。
才能がないのが問題なのではない。
メアリースーが問題なのだ。
そして未熟な者は、未熟を指摘されると烈火のごとく怒るだけで、
決して自己を改め、成長しようとしない。
何故なら苦痛を伴うからだ。
映画でも同じ事が起こっている。
今や大作は資金的にテレビ局が入らないとつくれなくなった。
だからテレビ局の作り方でつくるのだ。
僕は昔の映画業界を知らないから、
テレビ局以前の資金の集め方を知らない。
テレビ局以前のやり方が今機能していない理由も分からない。
結論。
今の商業作品の多くは、
チームにメアリースーがいる。
これを殺さない限り、これが多勢になる危険があり、
そうなりつつある。
しかし、才能のあるやつは金がない所出身だから、
アンチテーゼとしてこれがいい作品なんだと示せない。
「風魔の小次郎」がどれだけ名作でも、
低予算だという理由だけで見られていないことがそれを示す。
まず己のメアリースーを殺せ。
それは痛くて辛くて悩みを増やすことだ。
そしてその先の喜びを知ることだ。
チームにメアリースーがいるときは、そこに関わらないようにしろ。
しかしそのようにして孤高を保ったまま歳を重ねる人を沢山見てきた。
ということで、何かを自主的に作り続けて、才能を発表することを、
プロでも考えなければいけない時代になったと言える。
しかし自主の世界には、これまた有象無象のメアリースーがいるのである。
泥沼だ。
しかし、いいものはいい、という純粋な原則が最後に勝つと思いたい。
メアリースー的ないいものではない、いいものが。
2014年09月05日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック