メアリースー現象を、俳句で例えてみよう。
CMを例に考える。
例えばメーカー側が考える未熟なメアリースーは、
このようなCMが最高と考える。
カッコイイ 俺にガッキーが チューをする
なんでやねん。ご都合主義。説得力なし。
ガッキーはお金もらってるからや。
感情移入のかけらもない。
そのように普通は批判されるべきものだが、
表現者本人だけがそれに気づかない。
簡単だ。俺にではなく、赤の他人にガッキーがチューするからだ。
カッコイイ俺は無前提になっている。
これを幼児的全能感といってもいい。
この前提を、物語では感情移入によってなす。
何かの克服や達成によってだ。
短い尺であるほどそれは難しい。
不可能度と分かりやすさとリアリティーのバランスがだ。
(だからスーパードライでは、既に成功した人を出して結果に乗っかる。
それは、クリエイターとしては敗北である。その成功を物語内でつくるべきだからだ)
ガッキーのチューはご褒美としてはとても魅力的だが、
なくてもカッコイイを表現することが、物語の創作だ。
が、メアリースー症候群の人には、カッコイイ俺は無前提なので、
ガッキーか二階堂ふみか、チューかハグか、場所は俺んちかオアフ島か、
などのアイテムを決めることが表現をすることだと誤解している。
表現はご褒美ではなく、その前提を表現出来ていないことが分からない。
例えばこのような人が缶コーヒーのCMをつくると、
ガッキーが缶コーヒーにチューしてポッ、
みたいなどうでもいいものをつくる。
手前味噌もいい加減にしろ、というものだ。
いい缶コーヒーのCMとは、
前の俳句の例を引っ張ってくれば、
告白も 出来ず白い息が 溶けて行く
のようなものだ。
いい文学は人の心の奥底に語りかける。
お前の願望を書いてるだけじゃねえか、
という主観的メアリースーはどこにもいない。
いるのは、この小さな物語のすぐそばで、
一緒に深み(痛みやせつなさも含む)を味わいましょうよ、
というお誘いである。
実際缶コーヒーをガッキーがこの場面で持っていれば、
それだけでとてもいい缶コーヒーのCMになるだろう。
缶コーヒーから伝わる暖かさ、
言葉にならない思いが、暖まった白い息で表現される様。
美しいガッキーで見れば、我々は一生そのもどかしい思いを、
その缶コーヒーとともに味わうことが出来るのだ。
しかし今のCM業界では、
これをやって売れるのかと聞かれる。
CMはそれを流して売れるために打つのではない。
我々テレビの前の人を、楽しませる為にある。
うむ、楽しんだ、と思う人だけがその缶コーヒーを買う。
ファンになる。
そのような仕組みの筈だ。
自分がCMでものを買うときはどういうときかを考えれば、わかるはずなのに。
売れるためにCMを打つ、という考え方がそもそものメアリースーだ。
しかし賢い広告代理店は、そうですねと裸の王様のちんこを舐め、
億の仕事を保ち続ける。
俺は馬鹿なので、王様は裸だと世界の片隅で叫ぶ。
メアリースーはどうやったら退治出来るだろう。
メアリースーを知る以外ないと思う。
それは、顔から火が出るほど恥ずかしいことだと、自覚するしかないと思う。
メアリースーとは幼児的全能感であり、中二病的俺特別感だ。
つまりは子供のものであり、世間にさらしてよいものではない。
それには、自己鍛練が必要だ。
批判されて傷つき、立ち上がり強くなる根性論しかない。
そうやっていくうちに、きちんとした大人に成長するしかない。
しかし現代はサービス社会であり、なるべく人を堕落させようとする社会である。
その全てを見て、名作がどうやって出来ているか見て、
自分を高めていくしかない。
それには、年単位、十年単位で、自己を作り替えていくしかない。
チームにメアリースーがいたときは、なあなあに誤魔化すか、
全力で戦うか、全力で逃げるかを選ばなくてはならない。
(と、ここまで書いて、そういえばガッキーが缶コーヒーにではなく、
○○○ラーメンにチューしているようなCMを見たことを思い出した。
○○食品とCMチームのメアリースーは、末代まで呪われよ。
あれがガッキーではなく、ニュースターの発掘なら、まだ文法的にあり得た)
2014年09月05日
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