脚本のリライトは難しい。
第一稿を書き上げることより難しい。
多くの人は、
第一稿を最後まで書き上げることも出来ないから、
この世界は想像できないかも知れない。
それをイメージするには、
前項の俳句の例を見るとよい。
とあるテーマを表すのに、
わずか17文字のモチーフを色々いじった例を見よ。
言い回しを変えたり、場所や動作を変えたり、
視点を変えたり、語句を倒置したり。
語句のバランスを変えたり。
あるいは、良くできたモチーフの描き方が出来てしまった場合、
本来のテーマを描くために、その表現を捨てて本題に戻るか、
その表現を生かす新たなテーマをつくり、別物にしていくか、
という例も示した。
17文字でこれをやることは、
リライトという頭の柔軟性をつくるのにとてもよい。
問題は、他人の句ならあそこまでダイナミックに直せるが、
自分の句をあそこまでダイナミックに直せないことだ。
しかし改稿というのは、あそこまで原型を留めないほどの直しをするものだし、
してもよい。
元の欠点がなくなり、より良い流れやエレガントな表現や、
具体的で身につまるリアルな思いになることが目的で、
元が原型を留めていることが目的ではない。
(原作つきの場合、ここまで滅茶苦茶に改造出来ないのがネックとなる)
その改稿自体が失敗ということもある。
改造しまくったわりに元と比べてよくなかったり、
三回前のバージョンがよかったり、
実は最初のバージョンの初々しさがよかったりすることもある。
最初のバージョンは、大抵初々しく、拙い。
その良さを残しながら技巧的に書き直すのは、
更に技巧が必要だ。
さて、これが17文字なら自在に出来るだろうか。
1文字直すような微少な直しではなく、
テーマを失わないより良いモチーフに変えたり、
構造そのものも変えてしまったり、
モチーフを生かしてテーマを変えてしまったり、
という大胆な改造をである。
他人の句ではなく、自分の句をだ。
それは、客観的にならなければ難しいことだ。
自分の苦労の結晶を壊すことを、怖がらないことだ。
少しでも直すと、自分が否定されたような気になってしまうものだ。
半分直されたら半分否定され、
全面直されたら全面否定された気になる。
しかし前項の俳句の直しは、テーマを維持したまま、
より良いモチーフに書き直すという、リライトの見本のような直しをしていることに注意せよ。
ガワは、いくらでも変えてよいのだ。
中身のテーマこそが、創作の一番大事な魂なのだ。
逆にリライトとは、テーマを維持し、ガワをベストに持っていくこと、
というのが第一の目的である。
そう思えば、元の字が一文字も残っていなくても構わないのだ。
それは、あなたの描きたかったことが、
モチーフだったのかテーマだったのか、ということが重要だ。
とある絵を描きたかったのなら、
それはリライト出来なくなる。モチーフありきだからだ。
とある思いやストーリーを描きたかったのなら、
それはいくらでもモチーフをリライト出来る。
つまりあなたは、モチーフを描きたいのではなく、
テーマを描きたいと思うべきなのだ。
あなたは何を描きたいのか。
もし「絵」を描きたいのなら、あなたは脚本家ではなく、
挿し絵画家、写真家、美術部(セットをつくる仕事)、漫画家などに
なったほうがいいかも知れない。
脚本家は、あるテーマを描くために、文字表現とストーリーを絵の具にする人のことである。
勿論、「白い息が溶けて行く」という例のように、
いい表現そのものを思いついてしまうこともある。
その時にテーマそのものを構築し直すことも、
困難ではない。(うまく行く確率は結構低い。これは経験則)
リライトで重要なことは、
前のバージョンと比較することである。
前のバージョン、あるいは数バージョンを並べ、
どれがベストか選ぶことだ。
最初のバージョンがベストならそれを素直に選ぶべきだし、
三番目のバージョンがベストならそれを選ぶことだ。
問題は、その理由をきちんと言えるかどうかだ。
ここに数々のものから一番いいものを選べる「目」が必要になる。
それは、普段からいいものを見ているかどうかに、
全面的にかかっている。
オリジナリティがあるか、似たもののなかでより良くなっているか、
我々の気持ちがどれだけ揺さぶられるか。
それらのことが、俳句ならば並べて検討出来る。
脚本は?脚本も同じだ。リライトした複数のバージョンを、
全部読んで比較するのだ。
つまり、映画数本を見るだけの体力、
それを頭のなかで比較する体力が必要だ。
リライトは部分的な仕事なので、
実際に通しで読んだ時の読後感を俯瞰するには、
頭から読むしかないのである。
これをきちんとやることは、とても根気と頭の力がいることである。
さて、17文字で大胆な変更が出来ても、
これが4万4千字(110分)になると、
中々大胆になれないものだ。
俳句の5文字は、約32分に相当する。
一幕全部を書き直す労力は、俳句を五文字書き直す労力に等しい。
俳句のように大胆なリライトをせよ。
それは労力としてどれだけ大変かを覚悟せよ。
リライト中も、その感覚を見失ってはいけない。
15分ぶんの直し、60分ぶんの直し、90分ぶんの直し、
それぞれ全面書き直しの労力は大変だが、
それは俳句でいうと何文字相当なのかを、
意識しておこう。
脚本は数文字直したってよくならない。
俳句の例ほどの大胆な改造をしないと駄目だ。
俳句の例を常に思いだそう。
リライトとは、あそこまでやって、良くすることだ。
時々俳句を詠み、
それを書き直したりすることは、
脚本のリライトの感覚を記憶する上でとてもよい。
月20首ペースで、一年やるといいかも知れない。
全体と部分の関係を、17文字なら精緻に把握することが出来る。
その感覚を維持しながら、リライトはするものだ。
一度その感覚が出来ると、他にも応用がきく。
一度自転車に乗る感覚が分かれば、他のものに応用がきくのが、
人間の体感覚の凄いところである。
俳句は言葉のトレーニングになる。
モチーフとテーマの関係を分かるトレーニングになる。
リライトの感覚を鍛える。
さて。一度も最後まで書いたことのない人は、
書き終えてからの行程の長さに絶望したかも知れない。
だから僕は一貫して短編(5分、2000字)を勧めるのだ。
いきなり難しいことをせず、
着実に完結させる力を積むのだ。リライトする経験を積むのだ。
それを24サイクルこなして、
初めて中編や長編の感覚が分かってくる。
小説がこのやり方をするかどうかは知らない。
脚本はリアルタイムで再現される、プレイタイムが予め決まった楽譜である。
そのマスターの仕方は、小説のそれとは異なると思う。
2014年09月06日
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