2014年09月07日

形式と内容

何でも若いうちは、テクニックを知りたがる。
その形式をマスターしさえすれば、
名作が出来ると思っている。

それは勘違いであることは、
テクニックの形式を一通りマスターしたあとにやってくる。


絵を描くことを考えよう。
絵を習うということは、
油絵なら、
塗り重ねやグラシ(ぼかし)や、ナイフの使い方や、
油の使い分けについて学ぶことを最初にやる。
水彩なら、にじませ方や、黒と白をなるべく使わないことや、
色の混ぜかたや、紙の上での色の混色などを最初にやるだろう。
デッサンなら、黒と白の一番のところの抽出や、
ものの形を単純な丸や四角でとらえてから細かいところを見ていくこと、
ものの形は絵の裏まで続いていることを学ぶはずだ。
(僕は専門で絵を習ったことがないので、
高校美術で習う程度の内容で例えばなしをしようとしている)

さて、これらをマスターしたことが、
絵を描けること、と言えるだろうか。

そもそも何を描くのか、何を美しいと思うのかは、
絵を習うところでは多分教えてくれない。
赤の横に緑が来れば補色のコントラストをつくれることを、
色彩学では教えてくれるだろう。
水平や三角にに配置すると落ち着きが出て、それを破ると不安定になることを、
構図で教えてくれるだろう。

しかし一番肝心なこと、何を絵に描くべきか、は、
誰も教えてくれない。
何を絵に描くべきかを考えつくことが、
実は創作の一番大事なことだ、
という、最初に本当は教えるべきことは、
なかなか教えてくれない。


あなたは、台詞をマスターしたいとする。
苦労の末、どんな台詞でも書くことが出来、
どんな文学的技巧もフルに使え、
どんなリズムでも書け、
言い淀むことなく、いかなる内容でも自在に書けるようになったとする。

しかし、「何を言うべきか」だけは、
そのテクニックは教えてくれない。


三幕構成だろうが伏線だろうがどんでん返しだろうが、
お話を語るテクニックは、身につけることが出来る。
しかしそのテクニックを使って、
どんな話をつくればいいかは、決して誰も教えてくれない。

高価なカメラを買い、その使い方やテクニックをマスターすれば、
映画がつくれると思っている人は多い。
機材を買い、テクニックをマスターすることはとても大事だ。
そうやって自主映画をつくってきたやつは、
何もしたことないやつよりかは、映画のプロに近いだろう。
しかし、それらのテクニックを持っていたとしても、
次につくる話はどんなものがいいのかは、
機材もテクニックも語ってくれない。

ト書きがうまく書けない人は、
沢山のト書きを見て、写して、暗誦して、
書けるようになっていくといい。
どんでん返しが苦手な人は、同じくマスターしていけばいい。

しかし、それらの形式の先にある、
「その道具を使って何をするのか」を、
本当は一番考えるべきなのだ。
「どんな話が面白いのか」「その話にどのような意味、意義があるのか」
「これは人類にとって書くべき話か」
を、深く深く考えるべきなのだ。


書けるようになるまでは、初心者だ。
それを使って何を書くか悩むのが、創作の中級者だ。
上級者は、新しい書くべきことに対して、
新しい技法を発明しながらやることだろう。
(昨今革命的な作家が出にくいのは、
この形式を一通りマスターするのに、
時間がかかりすぎるからではないだろうか)

例えば作文の仕方なら、学校教育で大体は習ったはずだ。
だからと言って何を作文するのかだけは、
書く人が見つけ、調べ、まとめなければいけないのだ。



何を書くべきかを考えつくことが、
本当の創作だ。
書きたい話がないが、テクニックは学びたいと思っている人は、
創作の本当の姿をまだ知らない初心者だ。
全て学び終えたときが、
ようやくガワ(形式的テクニック)と、中身(ストーリーやテーマ)を、
区別できるときかも知れない。

映画をつくるには、とてもとても多くのテクニックをマスターする必要がある。
そんなもの、さっさとマスターしてしまえ。

(ただの映画好きから出発して、
どうやって作るかに興味を持ち、素人なりにつくり、
プロの機材で色々やれるようになるまで、何十年もかかるけど)
posted by おおおかとしひこ at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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