途中で書けなくなることはよくある。
しかしそれは二種類に分かれる。
形式と内容だ。つまり、
この内容を脚本形式でどう現せばいいのか分からないときと、
何を書くか分からないときだ。
前者は表現形式についての悩みで、
後者は作劇上の悩みである。
前者は比較的解決する。
詳しい人に聞く(例えば僕でも良い)のも手だし、
似たような映画の場面、脚本を調べるのも良い。
演出技術を持つ人、すなわち監督に、
カット割りをしてもらい、再度脚本表現に落とし込むことも可能だ。
例外もある。
例えば、小説の全ての表現を脚本形式には出来ない。
三人称の芝居で表現する範囲でしか、脚本は形式を持たない。
多くの一人称表現は脚本形式にならないし、
地の文の豊かな描写は、脚本形式には余計である。
ぱっと見れば分かることを脚本では長々と書かない。
(長々と豊かに書くのも地の文の醍醐味だ)
小説独特の、空間を無視した表現も、
実空間と実在物で表現する脚本には向かない。
つまり、脚本形式で表現できるお話の種類は、
世の中の全てのお話の一部である。
(物凄く少ないのか、わりと多いのかは、統計を取っていないので分からない。
直感的には、結構少ない、としておく)
だから、書けないあなたの発想は、
そもそも脚本形式では書けないものを思いついているかも知れない。
(勿論、単純に脚本形式で書くのが下手かも知れない)
新しい表現技法を思いついたときなどもそうだ。
そういうときは、表現技法だけを別紙に書き、
脚本にはストーリーだけを書くといいだろう。
脚本形式で書ける脚本的物語を書けるようになると、
後者の悩みがやってくる。
作劇の悩みだ。
これに対する対処法はいくつもこのブログに書いてある。
しかし、そもそもどちらの書けない病なのかを判断しない限り、
対処法も分からないだろう。
形式の悩みなら、教室に通えばいい。
内容の悩みなら、その解決は、生きることの目的を自分で決めることと同じくらい難しい。
ほんとうはそこまで難しくなくて、擬似的なのかも知れない。
しかし脚本家として生きていくことをあなたは既に決めたのだから、
それを変更するような難しさとでも形容してみるか。
その苦しさが創作である。
占い師も先輩も友達も、相談には乗ってくれる。
しかし、思いつき、最後まで書くのはあなた一人だけだ。
テーマやログラインや構成や、
プロットやストーリーラインやボードを整理し、
練り直すことでしか、先へ進むことは出来ない。
(そもそもこれらをきちんと準備していなければ、書き始めてはいけない。
書きよどむのは、執筆中は、体力的に疲れたときぐらいが理想だ)
2014年09月07日
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