2014年09月07日

「イン・ザ・ヒーロー」の裏切り

途中までずっと泣いていた。
唐沢は死ぬんだろう。そのアクションで。
我々は彼の勇姿を目に焼き付け、彼のやったことを継いで、
より発展させることが使命だ。
それが彼と生きたことだからだ。
そう予感していたからだ。
物語のクライマックス、本番がはじまるまでは最高傑作とまでは言わないが、
世に残る名作の予感がしていた。
スタンディングオベーションの準備はとうに出来ていた。

しかし。しかし。しかし。
その大一番、まさにその一点、一番やっちゃいかんことをした。
その瞬間、映画の魔法は解け、
この映画は唾棄すべきものへ180度転落した。

(以下、重大なネタバレ)







香港俳優が尻尾を巻いて逃げ出したアクション。
ノーワイヤーノーCGゆえの、
(推定)三階の高さからの地面への背中落ち。
マットを仕込むことのない、
受け身も取れない、自由落下。
誰もやれない危険なアクションを、唐沢なら出来る。
一世一代の、危険なスタント。

唐沢の首の爆弾。
別れた奥さんが間に合った。
彼はここで死ぬだろう。
その飛び降りの瞬間こそ、彼の人生の集大成であり、
彼の人生の完成の筈だ。

それがCGってどういうことやねん。

お前鎌田行進曲100回見直せ。


あれは素人目にもCGと分かるだろう。
(正確には人をマスク切って合成し、
コマを抜いて着地の瞬間を誤魔化している。
ご丁寧に土煙も足してあった)

ラストの本能寺の炎のCGは、百歩譲ろう。
今、大泉のスタジオで大火は使えまい。
やりたいことは分かるし、本題ではないから、そこは譲ろう。
唐沢に着火した炎が殆どCGで、
炎に包まれた白忍者はスタントだったことも譲ろう。

しかし、アクションの素晴らしさを、
俺たちに見せてくれるんじゃなかったのか。
それは、CGのことか。

腹立ってきた。

俺が本物のアクション映画をつくって、鼻で笑ってうんこかけてやる。




背中落ちの特訓が何故なかったのか。
衣装にクッションを仕込み、
カメラアングルからばれないところで上手く抜き取ったり、
地面と似た素材の薄手のアルファゲルみたいな新式のマットを仕込んだり、
手と足を同時について衝撃を分散する技や、
首にどれだけ負担がかかるか、
それを分かった上で首にプロテクターをはめるとか、
それなら動きが制限されるから、やはり首プロテクターをなしでやるとか、
一世一代の大アクションに至る話を見たかった。
だってアクションはチームなんだろ?
みんなで背中落ちを「つくりだす」のがアクションだろ?
そこさえ成功すれば、あとの100人切りなんてなくてもよかった。

福士の陳腐な母探しのサブプロットには目をつぶろう。
和久井と及川の陳腐なデートも目をつぶろう。
役が決まったときのハイスピードで唐沢が走るときの、
不必要な長さや、エキストラが彼の導線を避けて配置されていた陳腐さにも目をつぶろう。


唐沢が映画に見たもの、俺たちが映画に見たいもの、
映画の魔法の面白さ。
それがこの映画のテーマの筈だ。
それをCGってどういうことやねん。
どういうことやねん。
どういうことやねん。

お前らポーズで映画作ってるんじゃねえよ。
posted by おおおかとしひこ at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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