ネタバレにつき、未見の方はここで帰って下さい。
ちょっと冷静になった。
どこが不味かったのかを考えよう。
脚本の時点では、例の所がCGになるかどうかは分からない。
そこが問題だ。
脚本上では、困難なスタントを生でやりおえる前提で書かれている筈だ。
それを、現場の監督が(実際には不可能なスタントだった為)
CGとして処理をしたのだ。
何が問題か。
第一の責任は、生のスタントに拘らなかった監督だ。
生の着地が無理な時点で、
城の高さを変えるとか、背中落ちでないスタントへ、
アイデアを変更すべきだった。
しかし、そもそもの「凄い高さから落ちること」の実現性を、
可能かどうか検討していなかった、
脚本家の責任ではないか。
クライマックスの背中落ちは、
「誰もが尻込みする、一見不可能なスタント、
しかしたった一人のベテランだけが可能だ」
というものだ。
これには二つの要素があって、
一見不可能なことと、
実は可能にする何かがあることだ。
前者は描かれた。あの高さで背中落ちは、誰の目にも怖い。
しかし、後者が描かれていないのだ。
一見不可能なことを、どうやって可能にするか。
情熱か。唐沢は覚悟と情熱は誰にも負けない。
しかし根性だけで出来るなら、一見不可能なことではない。
技術か。
どんな技術が背中落ちには必要なのか、
スタントマンでない我々は知らない。
例えば背中を固めたほうがいいのか、
却って怪我するから柔らかくしたほうがいいのかも分からない。
手足を柔道の受け身のように叩きつければ、
ある程度衝撃を分散させられることは想像できるが、
下手にやると骨折かも知れないし、
それを防ぐやり方があるかも知れない。
つまり、長年やってきたアクション馬鹿の、
彼にしか出来ない最高の技術が何かを、
描いていないのだ。
それは、脚本家の取材不足としか言いようがない。
スタントマンとはどんな仕事かが、分かっていないのだ。
医療ものや刑事ものと同様、
職業もの映画なのに、
スタントマンの技術を取材していないのだ。
取材して取材して、その末の、
「誰もが一見不可能なことに見えて、
実は最高の技術と最高の情熱(または勇気)があれば、
可能なスタント」を、
作り出すべきだったのだ。
例えば背中落ちでなく、
「4分半での100人切り(一人2.7秒)」なんてのでも良かったかも知れない。
殺陣は相手とのコミュニケーションだ、というのもテーマだった。
この一見不可能な秒殺劇は、本当に気心が知れるチームでしか出来ない、
と設定すれば、そのようなクライマックスにも出来た筈だ。
そのチームに、福士も入っている、というドラマも見たかった。
その時に黒谷が身を預けるスタントを、今度こそ成功させる成長を見たかった。
これはクライマックスで最も重要なことだ。
「解決の瞬間」だからだ。
この映画は、一番大事なここで、適当な嘘をついた。
最低だ。
2014年09月08日
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