2014年09月08日

「イン・ザ・ヒーロー」の問題点

ネタバレにつき、未見の方はここで帰って下さい。

ちょっと冷静になった。
どこが不味かったのかを考えよう。


脚本の時点では、例の所がCGになるかどうかは分からない。
そこが問題だ。

脚本上では、困難なスタントを生でやりおえる前提で書かれている筈だ。
それを、現場の監督が(実際には不可能なスタントだった為)
CGとして処理をしたのだ。

何が問題か。
第一の責任は、生のスタントに拘らなかった監督だ。
生の着地が無理な時点で、
城の高さを変えるとか、背中落ちでないスタントへ、
アイデアを変更すべきだった。
しかし、そもそもの「凄い高さから落ちること」の実現性を、
可能かどうか検討していなかった、
脚本家の責任ではないか。

クライマックスの背中落ちは、
「誰もが尻込みする、一見不可能なスタント、
しかしたった一人のベテランだけが可能だ」
というものだ。
これには二つの要素があって、
一見不可能なことと、
実は可能にする何かがあることだ。

前者は描かれた。あの高さで背中落ちは、誰の目にも怖い。
しかし、後者が描かれていないのだ。
一見不可能なことを、どうやって可能にするか。

情熱か。唐沢は覚悟と情熱は誰にも負けない。
しかし根性だけで出来るなら、一見不可能なことではない。
技術か。
どんな技術が背中落ちには必要なのか、
スタントマンでない我々は知らない。
例えば背中を固めたほうがいいのか、
却って怪我するから柔らかくしたほうがいいのかも分からない。
手足を柔道の受け身のように叩きつければ、
ある程度衝撃を分散させられることは想像できるが、
下手にやると骨折かも知れないし、
それを防ぐやり方があるかも知れない。

つまり、長年やってきたアクション馬鹿の、
彼にしか出来ない最高の技術が何かを、
描いていないのだ。

それは、脚本家の取材不足としか言いようがない。
スタントマンとはどんな仕事かが、分かっていないのだ。
医療ものや刑事ものと同様、
職業もの映画なのに、
スタントマンの技術を取材していないのだ。
取材して取材して、その末の、
「誰もが一見不可能なことに見えて、
実は最高の技術と最高の情熱(または勇気)があれば、
可能なスタント」を、
作り出すべきだったのだ。
例えば背中落ちでなく、
「4分半での100人切り(一人2.7秒)」なんてのでも良かったかも知れない。
殺陣は相手とのコミュニケーションだ、というのもテーマだった。
この一見不可能な秒殺劇は、本当に気心が知れるチームでしか出来ない、
と設定すれば、そのようなクライマックスにも出来た筈だ。
そのチームに、福士も入っている、というドラマも見たかった。
その時に黒谷が身を預けるスタントを、今度こそ成功させる成長を見たかった。


これはクライマックスで最も重要なことだ。
「解決の瞬間」だからだ。

この映画は、一番大事なここで、適当な嘘をついた。
最低だ。
posted by おおおかとしひこ at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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