2014年09月08日

嘘つきと本当

あなたは嘘つきである。
客も、これは嘘だと知ってお金を払う。
しかしこれは、単なる意味のないホラ話ではない。

嘘の世界の、架空の主人公の架空の事件と架空の解決だが、
それらは矛盾してはならない。
我々は嘘つきとして、極上の二時間の嘘をつく。
それがフィクションの醍醐味だ。
リアリティーは、嘘の為にある。
だってそれ嘘じゃんと思われたら、嘘がばれるからだ。

嘘とは、それをつかれている間、相手が真実だと思うことだ。


何のために嘘をつき、観客は嘘を見に来るのか。
テーマの為だ。


映画というフィクションの中では、どんな嘘をついてもいい。
それが世界の中で本当らしく、矛盾がない限りにおいては。
それがフィクションである。

観客はフィクションだから楽しめる。
毎回毎回地球の滅亡の危機が来るのは、
フィクションだから許せる。
アニメだから嘘なのではない。
アニメや人形劇にすら、我々はそこにフィクションを見ることが出来る。


その代わり、フィクションを楽しむには、
それが二時間の間だけは、「ほんとうであること」を信じる。
それが、作者と観客の約束だ。

だから、その本当らしさを邪魔するような、
リアリティーのなさや矛盾は、約束違反なのだ。
折角本当だと思っているのだから、
その気分を壊す行為は最低であり、約束の反古だ。
そんなことがあったら、観客は作者を信用しなくなる。
これは嘘なのだが本当のことだ、と思うのではなく、
これは嘘っぱちだ、と思う。
それはフィクションにとっての死である。


その為には楽屋は見せるべきではないし、
嘘の間は、芸能人の顔を見せてはならない。

80年代は、これを取り込むことが流行した。
何故なら、もうこれ以上フィクションが面白くならなかったからだ。
永遠に続く日常が80年代のテーマだ。日常を壊すには、
フィクションの文法も壊す必要があったのだ。

AKBとは、嘘をつく者が楽屋を見せてますよという嘘をつく、
楽屋落ちのメタフィクションである。
恋愛禁止というたったひとつの嘘を最初のルールとした、メタフィクションである。
だから指原は徹底的に叩かれ、しかしアイドルもヤっている、
というメタフィクションのメタフィクションに化けることによって、
指原は嘘と真実の間で生きている。
当然、このプロレスを楽しむには知性がいる。
知性がいるぶん、そりゃ嘘だろ、とフィクションだと思えない人が離れて行く。
かくして、メタフィクションのメタフィクションは、
理解者の減少と共にブームが終わって行く。
フィクションを保ち続けるのは、こじはるのみである。
(小倉優子は結婚と共にメタフィクションから降りた。
しかしママドルのようなフィクションへシフトしようとしている)


嘘が嘘としらけられるのは、
折角本当だと思ってきたのに、
その信頼を裏切られたときだ。
80年代の楽屋落ちは、
そこまで含んでテレビの本当の世界、という嘘を構築した。

以前メイキングでファンの方と議論したことを思い出して欲しい。
もうあの人は見ていないだろうから言うが、
あのとき僕はメイキングの嘘をばらさなかった。
メイキングは全部嘘だよ。
みんなメイキング用の顔をしているし、
事務所チェックが入るよ。真実らしく見せる嘘だよ。
メイキング用の顔も作らなきゃいけないから、
メイキングNGのキャストもいるぐらい。
CMのメイキングなんてシワ消しや肌修正入ることもあるよ。
本当のメイキングは、普段写らない人達を追うこと。
虚構の世界を構築する全体像を見せること。

何故こんな重要なことをばらすかというと、
これを読んでいる人はスタッフ側を目指す人だと信じるからだ。

我々は、嘘の構築に全力を捧げる者だ。

それは、二時間のその嘘が、本当だと思うことだ。
その嘘をついている間は、それを本当としてつくるのだ。
何のために?
その本当こそが、映画のテーマだからだ。

テーマだけは本当のことだ。
テーマだけが本当で、
あとはそれを本当に見せるために嘘のモチーフをつくるのである。
それがフィクションだ。

ノンフィクションは違う。
本当のことを写した素材で、本当のことを語る。

しかしフィクションとは、
嘘のことを写した素材で、本当のことを語るのだ。

だからノンフィクションよりも、僕はフィクションの方が偉大だと思っている。
人間の嘘と想像力を使うからである。



「イン・ザ・ヒーロー」の、
「本当のこと」は、「みんな必死で映画を作っている」だ。
これはある意味本当だし、手を抜いて作っている奴が現実にいる限り、
それは本当ではない。
しかしその理念だけは、本当であって欲しい。
それが映画を愛するものの感情である。
映画は、その憧れが栄養だ。

だから、描き方が上手じゃなかったとはいえ、
「子供に夢を与える職業とは」を語る唐沢に共感できた。
子供を観客、夢を二時間の本当の嘘、と読み替えて、
これは映画そのものの話でもあると読解すべき物語だ。

そして、嘘の代表であるCGを使わないからこそ、
スタントに意味がある、という「本当」に、
我々はテーマを見るのだ。
大きな嘘をわざわざみんなで作るのは何のためか。
テーマという本当の為だ。
だから命を賭ける価値があるのだ。

正義やヒーローは、実在する。
その為に命を賭けるのだ。
だから僕はずっと号泣しながら見ていた。

その思いが、嘘だなんて。


「イン・ザ・ヒーロー」の裏切り、
即ち背中落ちを合成(半分CG)で誤魔化したことは、
フィクションをつくる全ての者の礼儀を、
馬鹿にした愚行である。
嘘をつき続けることで、たったひとつの本当を描こうとする者を、
馬鹿にした愚行である。
それが確信犯なのではなく、
無知でやってるくさいところが質が悪い。

「正義やヒーローは実在する」という本当を、
この映画は(結果的に)否定したのだ。
そんな馬鹿なことは許されない。

冷静に分析しようと思っていたら、また腹が立ってきた。
今のところ、オールタイムワーストを更新した。




我々は嘘つきだ。
世間では嘘つきは犯罪である。
詐欺師も夢を見せるがそれは犯罪である。
では我々は犯罪ではないのか。
ない。

我々は、実は本当のことを語るからだ。
本当のことを語る為に、嘘を道具(モチーフ)とするのが、
我々のストーリーテラーという仕事なのだ。
その構造をフィクションという。
フィクションだと皆が分かっているから、
我々は逮捕されない。
その二時間の嘘で、いったいどんな本当のことを語るのか、
つまりどんなモチーフでどんなテーマを言うのかが、
フィクションの楽しみかただ。

我々は真実を語る者だ。
だから魂を震えさせることが出来る。
100%嘘でも、その嘘をつくことそのものが真実だ。
サンタクロースはいる、という我々の思いが真実だ。

真実を語るためなら、100%の嘘をついてまでする。
それがストーリーテラーだ。


テーマは何か。それを決めることが一番難しい。
それは、あなたはどんな真実に向かい合うか決めることだからだ。



フィクションとは、嘘とは、本当のこととは、
ということを描いた作品に、アニメ「ミンキーモモ」がある。
突然この名作を思い出した。
今でこそロリコンの代名詞(それも古いな)だが、
夢を見ることの意味を、ここまで描き出した作品は、
これとティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」以外に知らない。
僕はモモに出会って、創作者としての自分を初めて肯定されたのかも知れない。
posted by おおおかとしひこ at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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