ストーリーを考えたくても、場面しか思いつかないことは、
初心者の時にはよくある話だ。
さらに追い打ちをかけるようだが、
そのような人は、場面と「シーン」の区別がついていないと思う。
「思いつく場面」は、たいてい一枚の絵でかけるものだ。
絵本でたとえよう。
文章に対し、あるまとまりをつくって、
その中のどこかの場面を、そのまとまりの代表として絵にかくのが絵本である。
「シンデレラ」で考えよう。
「かぼちゃが馬車になる場面」を出そう。
かぼちゃから馬車への「変化」がこの場面の肝だが、
変化という動きを絵に描くことは出来ないので、
大抵は「馬車出現」の絵を描くだろう。
(丁寧な絵なら、変化前のかぼちゃと変化後の馬車のふたつの絵を描くはずだ)
絵は変化をかけない。変化という動きこそがお話だ。
movieとは、moveのことである。
したがって、「場面」とは、大抵動きがなく、
お話という動きを表現するのに適さない。
ヒーローが悪を倒すなどの、動きのある絵なら可能か?
いや、すべてをそのような絵で描くことは困難である。
そもそも思いついた場面とは、すべてがそうだろうか?
大抵はそうではない。
だから、「場面を思いつく」ことは、
お話をつくっていることには、ほぼ関係がない。
さて、映画とは「シーン」が単位である。
それはひとつの場所で行われることで、
それが終わったら次のシーンで話の続きが行われる。
長編映画では数十から100程度のシーンで物語が語られ、
5分ものですら、7、8のシーンで構成されることもある。
(長編映画での、平均的な短いシーンは1分半程度だ)
さて、場面とシーンは何が違うのか。
そのシーンが場面のことではないのか。
「シーンの終わり」にまず注目してみよう。
シーンの終わりは、ラストシーンの例外をのぞき、
すべては「次に続く」ところで終わるものだ。
シンデレラの馬車の場面の文章を見るとよい。
「その馬車は、お城に向かいました」となっているはずだ。
次に続くことがシーンの役目である。
この文脈では、シンデレラが行きたかった舞踏会へ向かうことで、
次へ続いている。
「長編とは、序破破破…破急」でものべたが、
話というものは、はじまりがあり、
途中があり、「終わらない」で次へ続くものだ。
その面白さが、話の面白さである。
どこかで、「この話終わり」になってしまてはだめなのだ。
(サブプロットが途中で終わるのは例外)
その連鎖の面白さを組むことが、お話をつくることだ。
シーンの終わりには、すでに次のシーンへの続くがある。
では、シーンの頭はどうか。
前のシーンを受けて、
「それがどうなっていくか」を描くためのセットアップがあるのだ。
シンデレラの続きでいえば、
貴族たちがめいめいの格好をして踊っている様であり、
目的の王子様もそこにいることを示すのだ。
シーンの頭は、前のシーンからの続きであり、
シーンの終わりは、次のシーンへの続きなのだ。
ではシーンの途中はどうか。
展開と結果がある。
シンデレラの例で言えば、
王子様と踊って惚れられ、12時に魔法が解けるから家に帰ります、
といって帰り、ガラスの靴を忘れて帰る、
という展開と結果が。
(そして、シーン終わりに次への続きとして、王子が靴を拾う)
このように、シーンとは、
前の続きから、焦点を引き継ぎこのシーンのセットアップをし、
その焦点(興味)の展開と結果(完結はしない)を示し、
次のシーンへ新たな焦点を引き渡す、
という構造がある。
場面という一枚絵にはそのような構造がない。
絵本の馬車の場面と同じだ。
場面という一枚絵がシーンだと思っているならば、
それは浅はかなイメージでしかないのだ。
シーンは、映画の物語の最小単位である。
最小単位で、序破急や起承転結や三幕構造を持っている。
難しく考えなくても、
「はじまり」と「展開」と「終わらない(つづく)」が
あると思うとよい。
場面しか思いつかないことは、
シーンを思いついたことに比べれば、ペラペラだ。
(しょせん二次元だ。その二次元空間が時間軸を持つ、映画は三次元の芸術である)
しかもその一枚絵が、はじまりの部分なのか、展開のところなのか、
結果が出たところなのか、続くのところなのかすら、分らないはずだ。
場面を思いつくことを、やめよう。
お話を、思いつこう。
場面を思いつくことは、お話を思いつくことではない。
(場面を思いつくのは、お話を、夢や記憶のようなものだと勘違いしているからだ。
一枚絵でしか人は記憶できないという仮説を僕は出した。
そのあたりの議論は、このブログの過去のだいぶ前のところにある)
2014年09月09日
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