映画には、二種類の面白さが共存しなくてはならない。
これは僕の説だ。
多分、二時間をリアルタイムショウとして見ること、
と関係していると思う。
映画の黎明期には、別の面白さを足したり、
面白さの質が違ったりしたこともあっただろし、
短編映画や3時間ごえの映画などでは違うだろうが、
スタンダードな二時間の映画には、
二種類の全く違った面白さの共存が必要だ。
仕組みの面白さとは、ショウとしての面白さだ。
ブレイク・シュナイダーの言う、
お楽しみポイントである。
僕はコンセプトなどと言う。
それはショウの数だけ違うものだ。
「心が綺麗な人が美人に見える催眠術をかけられた男が、
体重150キロのブスがグウィネス・パルトロウに見えてしまい、
客観的にはデブなのだが主観的には超美女とのラブラブデートをする」
というのは、「愛しのローズマリー」のコンセプト。
(この映画はここは最高に面白いが、もうひとつの面白さが足りない。
あとで論じる)
「世界戦のチャンスをいきなり得た、
引退を考えてた地方のボクサーが、
何とかして試合に勝つことを考える」
は、「ロッキー」のコンセプト。
「風魔忍者と夜叉忍者が、互いに術を駆使して殺しあう」
は、原作版「風魔の小次郎(夜叉編)」のコンセプト。
「部活の試合の裏で」を足したのが実写版のコンセプト。
(これによって、「忍びとは表に出られず裏から助けること」という、
表側との関係を描くことが可能になった。そして、当然のことだが、
結論は、表でも裏でもあること、になる)
大怪獣が町を壊す(ゴジラ)、とてつもない災害が町を襲う(災害もの)
夢の世界から盗む為、夢の世界に侵入(インセプション)、
宇宙船に侵入したエイリアンを退治(エイリアン)、
などの分かりやすいコンセプトのものもある。
これは、主に二幕前半で現れる。
映画的な面白さを、十分に使う。
SFXはそのひとつだし、ダンスやアクションもそうだし、
コメディはここが肝だったりする。
今回のショウは、ここを楽しむのですよ、
というコンセプトであり、
この話はこういう仕組みの面白さなのだ、
という部分である。
日常とは違う非日常の部分の面白さであり、
スペシャルワールドの面白さだ。
僕はガワの面白さということもある。
一方、人間ドラマの面白さは、
主に主人公の内面に関わるところだ。
彼の欠落や乾きが、
スペシャルワールドの冒険によって昇華するのを描く。
「愛しのローズマリー」が大変惜しい作品になったのは、
ここの部分の甘さだ。
「人間は顔じゃなくて中身なんだ」という結論への、
主人公の心の動きがいまいちなのだ。
「心の美しさ」をボランティア活動に記号化したのも勿体なかった。
「中身の良さ」をもっと上手く描けていれば、
恐らく大傑作になったポテンシャルの映画だ。
それほどコンセプト部分は面白かった。
さて、これらについては今まで議論してきたことのまとめでもある。
これらと三幕構成についての関係が今回の本題だ。
一幕: 仕組みのセットアップと、人間ドラマのセットアップ
二幕前半: 仕組みの面白さメイン
二幕後半: 人間ドラマの面白さメイン
三幕: ふたつの面白さが融合
が、オーソドックスなパターンであり、
恐らく唯一のパターンだ。
仕組みの面白さは、大抵外的物語であり、
人間ドラマの面白さは、大抵内的物語である。
仮に内的物語の人間ドラマメインの映画だとしても、
特殊施設に入る(カッコーの巣の上で)、
引っ越す(サイダーハウスルール)、
疎開する(少年時代)、
など、必ずスペシャルワールドが存在し、
そこでの特殊な体験がお楽しみポイントになるような構造を有している。
ここでいう構造とは、空間的な場所のことではなく、
時間的な構造のことだ。
恐らく唯一のパターンと書いたが、例外はあるかも知れない。
(コメント欄で報告を。議論したし)
あなたは、ふたつの面白さを創作しなければならない。
それを一見ひとつに見せながらも、
実はバラバラに進行させ、
なおかつ融合して昇華しなければならない。
(スペシャルワールドでの解決が、内的物語の解決にもなるようにする)
それが、本当の映画の面白さだと僕は思う。
2014年09月10日
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