脚本家として、小説を書くときに思うこと。
それは、地の文はト書きではないことだ。
極端に言うと、脚本家から見たら、地の文も台詞であるべきだ。
どういうことかというと。
ト書きは、客観的に、簡潔に書けば書くほど優秀だ。
装飾や感情をそぎ落とした、論文のような調がよい。
なぜなら、そこは映像で撮るべきところで、
基本的には「文脈に合う絵作り」をするわけだから、
感情は排するのだ。
なぜなら、映像とは、客観的な三人称の道具で、
論理立てて感情をつくりだすことだからだ。
一方、台詞は感情を示す。
その人の生の声を示す。
(だから、説明台詞は良くないのだ。台詞は感情を示すべきだからだ)
極端に言うと、
ト書きは論理で、
台詞は感情で書く。
今絵に写っていることは、論理で書かなければスタッフはそれを表現する準備が出来ないし、
人物の生の声は、論理では書けないところを描くものである。
僕が駄目な例であげるのは、
君塚良一が書いたト書き、「目の覚めるような月。」である。
前後の文脈から、目の覚めるようなショットに月がなるように、
ト書きは感情を排して書かなければならない。
「月のアップ。」と書くだけで、
それが目の覚めるような月である事が読み取れるように、
前後を作っていくのが、ト書きによる方法論である。
ところが。
小説における地の文を、ト書きのように書いていくと、
実に味気がないのである。
ここからここまで論理、ここからここは感情、
と分けて書いてあるような錯覚になるのだ。
映画脚本において、
ト書きは目に映ることを書き、
台詞は耳に聞こえることを書く。
文字は同じ日本語表記だが、出力は違うメディアである。
(だから昔の歌舞伎の台本では、
ト書きはカタカナで書かれ区別されたこともある。
現在の映画脚本では、見にくいこともあるので普通の日本語表記だ。
一方、ハリウッドのスクリプトのフォーマットでは、
ト書きは普通の文章で、台詞は中央寄せの、別フォーマットで書く)
ところが、小説では地の文と台詞には、厳密なメディアの区別はない。
極端に言うと、意味的に混同している。
「彼女はこうすべきだと言った」という地の文と、
「彼女は言った。
『こうすべき』」
の台詞文のふたつに、大きな違いはない。
(脚本なら厳密に音で出すかどうかを決めるため、上のような表記は誤りである)
あるとすると、前後の文脈との兼ね合いだ。
目立たせるならオンで書けばよいし、話を進めるのが目的ならオフで書けばよい。
つまり、小説には、地の文という全能の文がある。
描写や説明にすら、地の文では感情を込めてもかまわない。
「目の覚めるような月が出ている。」と地の文で書いても、それはむしろ普通だ。
地の文はト書きの代わりではなく、これこそが小説の主役なのだ。
脚本家が台詞にすべての感情を込めるのと同様、
小説家は地の文にも感情を込めることが可能なのである。
つまり、脚本家から見れば、
小説の地の文と台詞は、両方とも台詞に相当するのだ。
極端に言えば、地の文と台詞は、
小説においては混同してもよい同じ「文体」の一部なのだ。
(小説についてはそれほど見識が深くないため、間違っていたらご指摘ください)
脚本の魅力は、ト書きと台詞の二頭立てである。
ト書きは主にプロットに、台詞は主に感情部分に関係する。
脚本に地の文はないし、あってはならない。
逆に、小説には厳密な意味でのト書きはどこにもない。
(おそらく、数式を解くことすら、感情を込めて書くだろう)
脚本家が台詞に込める文章表現を、すべての文字でやるのが小説だ。
さて。
だとして、小説と映画の違いはこのように言える。
地の文で感情を書いているものは、映画にならない。
地の文で書いている主な感情が台詞化可能なら、映画になるかも知れない。
映画のノベライズのほとんどが小説として微妙なのは、
(書き手が二流で安く済ませている経済的事情もあるが)
地の文をト書き扱いしてしまうからだ。
2014年09月10日
この記事へのトラックバック
語り手は英語にするとnarratorです。
なので小説における台詞と地の文は、シナリオではナレーションに相当するのでは。
脚本しかやってこなかった男がはじめて小説を書いたときの理解を書いた記事です。
地の文=ト書きじゃなかったんや、という発見で、
たしかにナレーションと考えるとわかりやすいかもですね。
ただシナリオにおけるナレーションは多用するべきでなく、二時間全体でせいぜい数行が限界です。
なので役割自体が異なると考えます。