2014年09月11日

切実にしよう

通り一辺倒の話を書かれても、
ちっとも面白くない。
優等生の書いた話は面白くない。
どんなに伏線が決まり、どんでん返しが鮮やかで、
斬新な構成のずば抜けたテクニックでもだ。

面白い話は、切実なのである。

その登場人物が、いかにその動機や事件に「必死か」が大事だ。


作者の体験談が、最も切実だろう。

だから、作文の初期(小学校)では、体験談の記録を書かされる。
遠足や読書の感想だ。
中学や高校だと、あることについての考えを書かされる。(小論文)
それは、体験に基づく思考のことだ。

世間一般の道徳を繰り返しても詰まらない。
自分の体験に引っ掛けて論を展開するほど、
その人の切実さと関係してとてもいい文章になる。
リアリティーが、ひとつのリアルに寄っ掛かっているからだ。

だがまだそれは一人称の文章である。


創作における物語では、
これと関係ない次元の話となる。
三人称スタイルだからだ。

(一人称を採用している小説では、ルポなどが存在する。
かつては、今でも、特殊体験をさせる「取材」がたくさんある)


三人称は、どこか他の人であり、
自分とは違う考え方、性格、経験、
自分とは違う立場、
自分とは違う目的、
自分とは違う動機の人を書く。
だから他人事だ。

だから、自分の事に比べて一段切実性が落ちる。

落ちるどころか、他人に興味が持てないまま、
その話にも興味が持てないものになってしまう。
それは当然、観客が興味の持てないものになる。

こうして詰まらない話が出来上がる。
(一方で、自分を描くオナニー方向にして詰まらない話も出来上がる。
これは初歩的なメアリースー症候群である)


では、三人称の切実さはどこにあるのだろう。

「その立場に立ったら、そんな目に会ったら、
誰でもそのように感じ、思うだろう」ということがキーになる。

それが切実であるように、
大抵は酷いシチュエーションに、その第三者を陥れる。
「それはひどい。理不尽だ。この人物の怒りや憤り、悲しみはとても分かる。
いや、分かるどころか、皮膚感覚で感じる」
というようなシチュエーションと彼(または彼女)の反応を描く。

恐らくは、それは人間の尊厳が傷つけられるシチュエーションだ。


人間の尊厳の傷つけられ方は、それこそ様々なパターンがある。
傷つけられた事のない人はいない。
だからこそ、どんなことであれ、
傷ついた第三者を見れば人は同情する。
浅い傷つき方では浅い同情、
深い傷つき方では深い同情、
深すぎる傷つき方ではドン引き
(同情失敗。たとえば「ドラゴンタトゥーの女」のレイプ場面。
原作スエーデン版の「ミレニアム」はそうではなかった)。


つまり、観客の同情(感情移入の糸口)を操作するのは、
傷つき方の大小である。


最近の映画でダークヒーローが増えたのは、
「皆が傷ついたとき、それを癒す簡単な方法がない」
という今の現実の反映だと思う。

だから、同じように誰かを傷つけることで、
復讐を果たすのだ。
それがモラルや正義にもとることであっても、
「傷を癒す事」が至上目的である以上、
現実にはダークヒーローになるしかないのだ。

かつては、傷つけてくる者は単純な悪役だった。
例えばナチスのような、酷い奴らだった。
だからそれをぶっ殺せばカタルシスが生まれ、
傷は癒され、勝利という生まれ変わりがあった。

しかし、「相手も人間である」という事実が分かってしまったので、
単純に殺して終わりではなくなってしまった。

そこに現代の映画の難しさがある。

切実で、心が傷つき、嫌なシチュエーションに陥った第三者が、
その物事を、上手く解決しなければいけないのだ。
「上手く」というのは、
社会的に合法で、皆が認める天晴れなやり方で、ということである。

これは難しい。
だから悪落ちしてダークヒーローになったほうが、楽なのだ。


さて。この考え方はそろそろ飽きられている。



切実で、傷ついた第三者が悪ならば、それを悪役にして、
別の切実で、傷ついた第三者を出し、
両者のコンフリクトを描けばいい、
ということに気づく筈だ。

つまり、人間の尊厳が傷つけられるパターンを、
複数考え出せばいいのである。


どちらがより切実かは、実はどちらでもよい。
(悪役は、伝統的に主人公のシャドウだ。
つまり、悪役と主人公は、同一人物の裏表に過ぎない)


実写「風魔の小次郎」の面白さは、
主人公サイドの話の面白さだけでなく、
敵方の夜叉サイドの話の面白さもほぼ均等にあることだ。
これは意図的に狙ったことである。

「主人公の光を描くために、シャドウの闇を濃く描く」考え方だ。

主人公は誰かの為に死ぬ覚悟をする。
シャドウは己の為に動く。(最終的にそうでない方向へ変わるけど)
その対比が物語のテーマになる。

主人公の切実さは、現実の死を見たことであり(それは今後もありうること)、
シャドウの切実さは、己が理解されないことだ。

(シャドウを壬生にしたことで、風魔は格段に面白くなったのだが、
武蔵をもシャドウに出来なかったことを、今は反省している。
武蔵が傷つくのは、壬生と絵里奈を失い、過去を回想する最終回付近で、
それは全体からすると遅い。中盤の壬生回と前後して武蔵回があるべきだった。
例えば絵里奈の友達が小次郎と知り、闘う目的がぶれていくなど)



あなたは物語を書こうとしているのだから、
それなりに繊細な人間の筈だ。

今まで人生を生きてきた中で、沢山傷ついたことだろう。
その経験が生きる。
(逆に生きるのは、ここしかないかもだ)


あるシチュエーションに陥った第三者が、
どうやって傷つくか考えよう。
それが、その第三者が、「他の人」ではなく、
自分と同様の切実さを持つ瞬間である。


注意したいことは、
先に傷つく場面を書いてはいけないことだ。

あなたはその傷を現実には癒していないから、
その傷を癒す物語を書くことは出来ない。
(逆にその克服談を書いても、それは一人称の物語にしかならない)


先に、「あなたにとっては切実さのない」、
第三者のプロットをつくり、
無矛盾なお話を論理的に作った上で、
最後のスパイスとして振りかける程度に考えるとよい。

つまり、切実さとは、
プロットにではなく、執筆時に現れる感情だ。



勿論、主人公だけでなく、
シャドウ、脇役、端役に至るまで、
誰もが傷つき、立ち上がろうとしている世界を書くべきだ。

傷つき方のバリエーションは、
あなたの心に沢山あるからだ。


また、あなたの傷ついたシチュエーションだけでなく、
面白い傷つき方を選ぶことも可能だ。

スピリッツで連載中の「オケラのつばさ」(のりつけ雅春)では、
病院で尻穴を好きな看護婦に見られる、
という傷つき方が今週あった。
これはキツイわ、と我々が笑い、同情することで、
このキャラクターが次に彼女にどうするかを期待する。
それが感情移入というものだ。
(のりつけ氏は、「アフロ田中」も含め、男のどうしようもない傷つき方を描くのが上手い)



繰り返し忠告するが、傷つく切実さから出発しないほうがいい。
あなたの繊細さは、自力でそのブラックホールから脱出出来ない。
一幕はとても繊細で感情移入出来るものになるが、
二幕三幕と進むにつれ、決してカタルシス的解決には至らない。

繊細すぎてそのような失敗をした作品として、
「かいじゅうたちのいるところ」「アダプテーション」(スパイク・ジョーンズ)
「恋愛睡眠のすすめ」「エターナルサンシャイン」(ミシェル・ゴンドリー)
「脳内ニューヨーク」(チャーリー・カウフマン)
などを挙げることができる。


プロットは論理で。
執筆は感情で。
ト書きは論理で。
台詞は感情で。

この原則を守り、登場人物の心に潜ったり、
論理的客観性を持ったりしよう。
posted by おおおかとしひこ at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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