自分が傷ついたところから話をはじめても、
心の迷路に入り込むだけだ。
しかも三人称の話にもならない。
自分の話を書いてはいけない、
と僕は何度も警鐘を鳴らしている。
傷ついた自分を主人公にしてしまうと、
主人公は救いを求める人になってしまう。
それは、誰か他の人に救ってもらわない限り救われない。
だからその主人公は、何をすることもなく、
何故だか他人に何かをしてもらって解決する。
それは、他人から見れば「サービスされて気持ちよくなっているだけ」の姿だ。
これがメアリースーの正体である。
メアリースーは、サービスをされる客をただ写してるに過ぎないのだ。
それは、物語ではない。
物語とは、事件と解決のことである。
こちらの間違った道に入らないためには、どうすればいいだろう。
プロットをしっかり作ることだ。
どういう事件があり、それを見事に解決する道筋を考えつくことだ。
出来れば、予測のつくものではなく、
予想のつかない二転三転があるとさらによい。
それに、あとで切実さを加えるのである。
あなたの一部の傷つきを、その初期事情にアレンジして、
主人公(たち)に加えるのである。
心の傷をただ癒すには、
正式にはカウンセリングが必要だろう。
しかし映画はカウンセリングではない。
主人公が、外的物語を解決することで、
内的問題(つまり、傷ついた切実さ)を、
昇華するのである。
外的物語の解決は、
内的物語の代償行為となるのである。
これが、カタルシスなのだ。
あなたの傷ついた心は、
カウンセリングによって救われるのではなく、
冒険の達成によって、
スペシャルワールド経由で、
昇華されるのだ。
またもやロッキーを例に出せば、
彼の「俺はちっぽけな男じゃない」という傷つきは、
「試合で最後まで立つこと」という冒険の達成によって、
救われるのである。
実際、シルベスター・スタローンの自画像に近いこの物語は、
内的物語の殆どは彼のプライベートを反映してもいる。
だから、自分を書いてはいけない、を破っている。
しかし、彼の内的問題と関係のない世界、
ボクシングというスペシャルワールドを持ってきて、
この中でロッキーを描いたことが、
この映画の最大の勝利だ。
あまりに自分を重ねないようにしよう。
メアリースーが涌いてくる。
まずはプロット。
映画のストーリーは、プロットで決まる。
そして、魂を切実さで埋め込むのだ。
2014年09月11日
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