2014年09月11日

切実さの話2

自分が傷ついたところから話をはじめても、
心の迷路に入り込むだけだ。
しかも三人称の話にもならない。


自分の話を書いてはいけない、
と僕は何度も警鐘を鳴らしている。
傷ついた自分を主人公にしてしまうと、
主人公は救いを求める人になってしまう。

それは、誰か他の人に救ってもらわない限り救われない。

だからその主人公は、何をすることもなく、
何故だか他人に何かをしてもらって解決する。
それは、他人から見れば「サービスされて気持ちよくなっているだけ」の姿だ。

これがメアリースーの正体である。


メアリースーは、サービスをされる客をただ写してるに過ぎないのだ。
それは、物語ではない。

物語とは、事件と解決のことである。


こちらの間違った道に入らないためには、どうすればいいだろう。

プロットをしっかり作ることだ。

どういう事件があり、それを見事に解決する道筋を考えつくことだ。
出来れば、予測のつくものではなく、
予想のつかない二転三転があるとさらによい。

それに、あとで切実さを加えるのである。

あなたの一部の傷つきを、その初期事情にアレンジして、
主人公(たち)に加えるのである。


心の傷をただ癒すには、
正式にはカウンセリングが必要だろう。
しかし映画はカウンセリングではない。

主人公が、外的物語を解決することで、
内的問題(つまり、傷ついた切実さ)を、
昇華するのである。
外的物語の解決は、
内的物語の代償行為となるのである。
これが、カタルシスなのだ。

あなたの傷ついた心は、
カウンセリングによって救われるのではなく、
冒険の達成によって、
スペシャルワールド経由で、
昇華されるのだ。


またもやロッキーを例に出せば、
彼の「俺はちっぽけな男じゃない」という傷つきは、
「試合で最後まで立つこと」という冒険の達成によって、
救われるのである。

実際、シルベスター・スタローンの自画像に近いこの物語は、
内的物語の殆どは彼のプライベートを反映してもいる。
だから、自分を書いてはいけない、を破っている。
しかし、彼の内的問題と関係のない世界、
ボクシングというスペシャルワールドを持ってきて、
この中でロッキーを描いたことが、
この映画の最大の勝利だ。


あまりに自分を重ねないようにしよう。
メアリースーが涌いてくる。

まずはプロット。
映画のストーリーは、プロットで決まる。

そして、魂を切実さで埋め込むのだ。
posted by おおおかとしひこ at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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