2014年09月12日

論理、感情、外連味

これまでのことを更にまとめてみる。

映画脚本の三要素。
論理、感情、外連味。


論理とは、プロットに関することだ。

何故そうするのか。
こうだからこうする。
こうしないためにこうする。
全ては、このような理由だったのだ。
相手がこれをするから裏をかく。
理由、打算、合理、計算、計算外、
裏、想定する、論理的、一貫性、矛盾、
などに属すること全てだ。

これが出来ていないと、
「何故そうするのか分からない」
「他にもっと考えることあるだろ」
「AじゃなくてBをしたほうがいいのに、何故しないの?」
「なんか話が途切れ途切れになる」
「おかしいだろこれ」
「そもそも矛盾してるわ」
などの話を生む。
頭悪い人が書く話は、大抵論理性がうすいか、物足りない。


感情とは、登場人物に関することだ。

登場人物の感情に一体化することを、
感情移入という。
誰か他の人が泣いているのを、
はいそうですかと見るのではなく、
俺も悲しくて泣く、となるのが感情移入だ。
泣くとか笑うとかの、分かりやすい強い感情は、
もらい泣きやもらい笑いがあるものだが、
そうでない細やかな感情に寄り添えるのが、
感情移入というものである。

誤解されやすいのは、感情移入と好きという感情だ。
感情移入したら好きになってしまうので、
なかなか分離出来ないのだが、
好きと感情移入は違う感情だ。

好きだけど感情移入出来ないこともあるし、
(俺の好きな女に、ブラジャーはうっとおしいといきなり言われても
感情移入は出来ない。金玉が蒸れる話になれば、そこから感情移入出来るかもだ)
嫌いだけど感情移入することもある。
(悪役に肩入れしてしまうなど)

また、感情移入は自分と遠い人物にも出来る。
全く立場や年齢や性格や性や人種が違ってもだ。
コツは「この人も私と同じ人間なのだ」と思わせることだ。
陥ったシチュエーション、切実さや傷つくことがキーになるのは、
前に論じた。

これが下手だと、
「このキャラ面白くない」
「なんか滑ってる、退屈」
「この役者、芝居下手」
「集中力が途切れる」
「なんか無理がある」
「他人事に見えて、没入できない」
「泣いたり騒いだりしてるだけで、うるさい」
「分かるけど、面白くない」
「興味が持てない」
「人物に魅力がない」
のような話になってしまう。
魂が入っていないと、こうなりがちだ。


外連味とは、非日常性に関することだ。

宇宙人や幽霊やモンスター、CGや3D、異世界、
巨大セットや爆発やすごいロケ、
アクションやダンス(ミュージカル)、
猟奇殺人、パニックなどだ。
日常を舞台にしたものでも、
非日常なことが起こるものだ。
これらは、第二幕のスペシャルワールドのことが多い。
最近は、スクリーン外のイベントも含めた、
仕掛け全体としてつくるものも増えた。

これで映画は人を「釣る」。
この楽しみを前景に置いて、本来のお話
(論理と感情に当たる部分)で楽しませるものである。

勘違いしやすいのは、これが映画の本体ではないことだ。
○○が面白いんだよ、
という感想は、これのことを言ってしまう。
じゃあ○○のシーンだけ見せて同じ満足が得られるかというと、
必ずそうではない。
ストーリーそのものを楽しんだのだが、
それを言語化出来ていないため、
目立つ○○で代表しているだけのことなのだ。

これを文字通り受けとる、勘違いアホプロデューサーは、
外連味さえあれば映画になると思っている。
じゃあびっくりどっきりシーンだけ繋いで興行していればいいのだ。
(世界の衝撃映像集なんてコンテンツがあることで、
話は余計ややこしくなるのだが)

最近の映画の打ち合わせは、ずっとこの話しかしていない。
外連味をどうつくるか、
それをスポンサーにどう理解させるかばかりだ。
(脚本形式は、文字だからそれを分かりやすくするには、
ビジュアル資料をつくるなど、ストーリー創作とは別の労力にソースが割かれる)

そんなもの、脚本家が考えることの、1/3でしかない。
残り2/3の打ち合わせが、全然出来ない。
だから最近の邦画の脚本は、1/3しか出来ていない。

僕がガワばっかりで中身がない、と批判するのは、
これのことを言っている。
ペプシ桃太郎は、絵の外連味に対して、論理も感情もなかった。
だから名指しで批判した。
(その外連味すらパクリでありオリジナルではない)
原作つきのものが映画化する際、
キャスティングや衣装やCGしか話題にならないことの意味が分からない。
「それがどんな二時間の話になるか」のことのほうがよっぽど大事だ。
単純に、1/3と2/3の数字で乱暴に比較しても構わない。

この外連味が足りないと、
「話題性が欲しい」
「派手さが足りない」
「なんか地味」
「取っ付きにくい」
というものになる。

実際のところ、話題性や取っつきという作品への導線は、
作品がどんなものであっても、配給がうまくつくるべきものである。
最近の配給宣伝はとても下手だから、
我々が知恵を絞らなくても導線をつくれるものを、考えてくれ、
ということに実質なっている気がする。
(全ての配給宣伝がそうとは言わない。
きちんと考え、クリエイティブな導線をつくる、
志のある配給宣伝会社もあるだろう。
ただし角川のいけちゃん担当だけは別だ。
「『余命一ヶ月の花嫁』はネタバレしてヒットしたから、
この映画の宣伝もネタバレしてよい」と
自分を正当化した発言を、僕は一生許さない。
想像上の友達の世界、その不思議、という外連味を何故理解しないかの、
意味が分からない)


脚本家としては、
地味だと取っつきが悪い、
ということだけに気をつければよい。
(そもそも派手さとは、予算に比例するものだ)
あなたは、スペシャルワールドの魅力の構築に才能を使ったほうが建設的だ。
だってそもそも映画の外連味が大好きだから、
映画に興味を持った筈なのだ。
それを考えることは、夢想的に楽しいものの筈だ。

書き手として注意すべきことは、
外連味のパートでは、実質脚本上ストーリーの進行がストップすることだ。
アクション、ダンス、ラブシーン、
凄い世界を示すシーン、世界の破壊。
これらは状況の凄さを絵で示しているだけで、
お楽しみではあるが、ストーリー進行はその間止まっている。
たとえば派手なラストアクションが、一回のじゃんけんで決まるとしても、
面白いストーリーをあなたは書くべきだ。
予算があれば、じゃんけんがハリウッドアクションになるだけだ。




これらの三要素で映画脚本を分析すると、
よい知見が得られるかも知れない。
例えば外連味は、時代と共に大きく変化しているが、
論理と感情は、たいして変わっていないことを知るとよい。
モノクロ映画というだけで敬遠する若い人も、
傑作を見れば、そんなもの関係ないと気づくことが出来る。
(例えば昨日、生涯三回目の「十二人の怒れる男」を見た。傑作だ。
これについては別に書く)

あなたの書いた、あるいは書こうとする脚本には、
何が足りないのか。
あるいは、何が過剰ゆえに何かを抑えているのか。

僕は、
まず外連味を思いつき、一端それを脇に置き、
論理でプロットを書き、
感情で執筆し、
最後に外連味のふりかけを監督がかけるのが、
いい脚本の書き方だと思っている。
posted by おおおかとしひこ at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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