あなたが作家の才能があるとしたら、
何か突出したものを持っているからだ。
それは大なり小なり自覚すべきだ。
それは、世間からすると、ずれている。
あなたは鋭い感覚を持ち、誰も気づかない何かに気づくことが出来る。
しかし、その間、世間は別のことをしている。
そのことにあなたが俯瞰出来ない限り、
あなたは鈍い人だ。
世間が考えることを、そのとき考えていないからだ。
あなたが鋭くなればなるほど、逆説的に鈍くなるのだ。
過去(数年前でいい)のメモなどを見るといい。
凄い鋭さもあるけど、とんでもない所に気づいていなかったりする。
(8年ほど昔のメモを漁っていて、気づいたのだが)
天才と馬鹿は紙一重というのはそういうことだ。
天才は、その天才部分を理解できない人から見ると、
馬鹿の部分が目立つのだ。
何が言いたいかというと、
たまには世間の見方(たとえば大阪のオバチャン目線)で、
自分の作品を見返すことも大事だということ。
「はじめの一歩」の宮田の話で、
「尖った鉛筆は折れやすい」というやつがある。
あなたの鋭い所が折れたら、あとは鈍い世界が残るだけだ。
リライトでは、往々にしてそれが起こる。
大抵鈍い世界を普通にするだけで終わってしまう。
ディテールの鋭さではなく、根本的に鋭ければ、
そういうこともなく全ボツだが。
鋭い所はあなたの長所だ。
それがどうして鋭く、良いのか、
ある程度馬鹿にも説明出来るようにしよう。
民放テレビの解説は、偏差値40を基準としているそうだ。
天才ほど「見ればわかるだろ」と思っている。
それは自信の現れでもある。
自明だから良いものに、説明をつけるのは野暮だから。
しかし、相手が大阪のオバチャンではそうはいかない。
何が鋭くて良いところなのか、
あなたなりに真摯に答えることも考えよう。
それは、企画書を書くことであきらかになることが多い。
鋭い所が共有されないのなら、
あなたの作品は、単なる鈍い作品と思われているかも知れない。
2014年09月13日
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