小説には地の文があり、
そこでは人物の内面が描写できる。
映画にはない。
(ナレーションという道具があるが、多用は厳禁だ。
多用した失敗映画に「私の優しくない先輩」がある。
このときの川島海荷は整形前で最も可愛く、
見る価値はあるが、今は本題ではない)
もう少し深く見ていこう。
地の文における内面の描写は、
我々脚本家から見ると、
解説を付け加えているのである。
どういうことか。
三人称による芝居では、
見た目の状況と、人物の台詞と行動や仕草だけが、
与えられる情報だ。
登場人物の内面は、仕草(暗示)や、
台詞と行動(明示、暗示)で表現するしかない。
逆に観客は、それから「読み取る」しかない。
彼または彼女がした行動や、発言から、
「真意を読み取る」しかないのだ。
だから脚本においては、曖昧なことはしてはいけない。
「明らかに読み取れるようにする」必要がある。
こういうことがあり、こういうことをし、こういうことを言ったからには、
「こういうことを考え、思っているに違いない」と、
読み取れるようにつくるのだ。
それの極端なものがミステリーにおける、
犯人の推理である。
証拠があり、状況の文脈があり、証言がある。
そこから「真意」を推理するのがミステリーだ。
犯人という具体的なものでなく、
何かの「真意」を探っていくのは、全てミステリーのジャンルである。
ミステリーは、それを容易にせず、
難しい謎にするのがジャンルの目的だが、
通常の三人称芝居では、なるべく容易に読み取れるようにする。
誤解や、曖昧を、我々脚本家は、なるべくなくす。
明らかに読み取れるように、行動や発言を組む。
これが三人称表現の難しい所であり、醍醐味である。
これを、地の文は容易に崩すことが出来る。
純粋な三人称視点で書く、即ち脚本表現の立場でない限り、
小説では、内面を内面から描くことが出来る。
その人がその瞬間、何をどう思っていたのか、
その人なりの哲学や考え方や過去や経験。
その人、だけでなく、別の視点からのこの状況の考察。
例えば漫画なら、
ナレーション(作者の立場に近い人)が、
この状況を「解説」することがある。
「キン肉マン」におけるアナウンサーは殆どこの役割だ。
最近漫画「バキ」シリーズで、この手法を、
三人称視点話法にどうにか取り入れようとする実験がある。
「目撃者の証言インタビューの挿入」だ。
バトルの途中、「あのときのアレはこうだったのではないか」を挿入するのだ。
(飽きてきたのか最近あまり見ないが、その代わりナレーション解説がまた増えた)
「バキ」の例ですぐ想像がつくように、
これらの描写は、
全て「進行を一端ストップする」ことに注目しよう。
(キン肉マンのアニメ化でも、アナウンサーの喋りが長すぎて、
ちっとも試合が進行していなかったことを思いだそう)
映画はリアルタイムで進行する物語である。
従って、この「進行を止める」ことは、
(大きくは)タブーである。
長い回想シーンは、映画では(本来)やってはいけない。
何故なら、進行が止まるからだ。
だから脚本業界では、
回想のことを「フラッシュ」バックという。
回想シーンまるごとではなく、なるべく短い時間でやるべきである、
と自戒を込めた言葉で呼ぶのである。
「回想シーンを一切使わず、現在の進行を追うだけで話が語られる」
ことが映画脚本の理想形である、
と言っても過言ではない。
しかし、
「地の文を一切使わず、現在の進行を追うだけの小説が理想だ」
は、過言だと思われる。この差が、地の分の性格を語っている。
つまり、小説では、
リアルタイム進行にしなくてよい。
また、脚本家から見ると、
地の文は、ストーリーの途中で、
ちょいちょい追加情報を足すことが可能だ。
考え方、過去、解説などの挿入は、脚本家から見れば、
「あとづけ」と同じ構造を持っている。
脚本では、あとづけはタブーだ。
やるならば前ふりが必要だ。(それの特殊なものが伏線だ)
そして、前ふりだけを出来るパートは、
脚本には冒頭8分(原稿用紙8枚、3200字分)程度しかない。
8分というのは、平均的なカタリストポイント、
つまり何かきっかけとなる事件が起こるポイントの時刻だ。
脚本で、何故説明台詞が難しいか、
これで理解出来る。
「ストーリーの進行を止めてはいけない」からだ。
小説では、地の文で、
止めてでも何かを挿入出来る。
ここで、小説とは、本式のちゃんとしたものではなく、
「我々が作劇の為に試しに書いてみるもの」レベルを考えている。
本式のちゃんとした小説でもこれはタブーである、
と言われたら、ごめんなさいとあやまります。
小説は、だから、「思考の流れ」なのだ。
映画は、「事件の流れ」なのだ。
映画は、事件の流れを描くことで思考の流れをも実質描く、という、
実は間接文学なのだ。
何かを主張するとか、言いたいことを言うなら論文を書け、
と僕はよく言う。それは、論文が直接だからだ。
僕はいまだに実写「キャシャーン」を許していない。
それは、ただの論文だからだ。
ついでに、「イン・ザ・ヒーロー」も許していない。
唐沢のアツイ台詞は、単なる論文に過ぎなかったからだ。
しかし、それはその言いたいことを生身で証明するという、
前提ありきだから許せた。
それが生身でない段階で、それはただの論文と堕したのだ。
2014年09月13日
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