2014年09月13日

小説と映画の違い:内面の描写

小説には地の文があり、
そこでは人物の内面が描写できる。
映画にはない。
(ナレーションという道具があるが、多用は厳禁だ。
多用した失敗映画に「私の優しくない先輩」がある。
このときの川島海荷は整形前で最も可愛く、
見る価値はあるが、今は本題ではない)

もう少し深く見ていこう。



地の文における内面の描写は、
我々脚本家から見ると、
解説を付け加えているのである。

どういうことか。

三人称による芝居では、
見た目の状況と、人物の台詞と行動や仕草だけが、
与えられる情報だ。
登場人物の内面は、仕草(暗示)や、
台詞と行動(明示、暗示)で表現するしかない。
逆に観客は、それから「読み取る」しかない。
彼または彼女がした行動や、発言から、
「真意を読み取る」しかないのだ。

だから脚本においては、曖昧なことはしてはいけない。
「明らかに読み取れるようにする」必要がある。
こういうことがあり、こういうことをし、こういうことを言ったからには、
「こういうことを考え、思っているに違いない」と、
読み取れるようにつくるのだ。

それの極端なものがミステリーにおける、
犯人の推理である。
証拠があり、状況の文脈があり、証言がある。
そこから「真意」を推理するのがミステリーだ。
犯人という具体的なものでなく、
何かの「真意」を探っていくのは、全てミステリーのジャンルである。

ミステリーは、それを容易にせず、
難しい謎にするのがジャンルの目的だが、
通常の三人称芝居では、なるべく容易に読み取れるようにする。
誤解や、曖昧を、我々脚本家は、なるべくなくす。
明らかに読み取れるように、行動や発言を組む。
これが三人称表現の難しい所であり、醍醐味である。


これを、地の文は容易に崩すことが出来る。
純粋な三人称視点で書く、即ち脚本表現の立場でない限り、
小説では、内面を内面から描くことが出来る。
その人がその瞬間、何をどう思っていたのか、
その人なりの哲学や考え方や過去や経験。
その人、だけでなく、別の視点からのこの状況の考察。

例えば漫画なら、
ナレーション(作者の立場に近い人)が、
この状況を「解説」することがある。
「キン肉マン」におけるアナウンサーは殆どこの役割だ。

最近漫画「バキ」シリーズで、この手法を、
三人称視点話法にどうにか取り入れようとする実験がある。
「目撃者の証言インタビューの挿入」だ。
バトルの途中、「あのときのアレはこうだったのではないか」を挿入するのだ。
(飽きてきたのか最近あまり見ないが、その代わりナレーション解説がまた増えた)

「バキ」の例ですぐ想像がつくように、
これらの描写は、
全て「進行を一端ストップする」ことに注目しよう。
(キン肉マンのアニメ化でも、アナウンサーの喋りが長すぎて、
ちっとも試合が進行していなかったことを思いだそう)


映画はリアルタイムで進行する物語である。
従って、この「進行を止める」ことは、
(大きくは)タブーである。

長い回想シーンは、映画では(本来)やってはいけない。
何故なら、進行が止まるからだ。
だから脚本業界では、
回想のことを「フラッシュ」バックという。
回想シーンまるごとではなく、なるべく短い時間でやるべきである、
と自戒を込めた言葉で呼ぶのである。

「回想シーンを一切使わず、現在の進行を追うだけで話が語られる」
ことが映画脚本の理想形である、
と言っても過言ではない。

しかし、
「地の文を一切使わず、現在の進行を追うだけの小説が理想だ」
は、過言だと思われる。この差が、地の分の性格を語っている。

つまり、小説では、
リアルタイム進行にしなくてよい。


また、脚本家から見ると、
地の文は、ストーリーの途中で、
ちょいちょい追加情報を足すことが可能だ。
考え方、過去、解説などの挿入は、脚本家から見れば、
「あとづけ」と同じ構造を持っている。

脚本では、あとづけはタブーだ。
やるならば前ふりが必要だ。(それの特殊なものが伏線だ)

そして、前ふりだけを出来るパートは、
脚本には冒頭8分(原稿用紙8枚、3200字分)程度しかない。
8分というのは、平均的なカタリストポイント、
つまり何かきっかけとなる事件が起こるポイントの時刻だ。


脚本で、何故説明台詞が難しいか、
これで理解出来る。
「ストーリーの進行を止めてはいけない」からだ。
小説では、地の文で、
止めてでも何かを挿入出来る。

ここで、小説とは、本式のちゃんとしたものではなく、
「我々が作劇の為に試しに書いてみるもの」レベルを考えている。
本式のちゃんとした小説でもこれはタブーである、
と言われたら、ごめんなさいとあやまります。

小説は、だから、「思考の流れ」なのだ。
映画は、「事件の流れ」なのだ。
映画は、事件の流れを描くことで思考の流れをも実質描く、という、
実は間接文学なのだ。



何かを主張するとか、言いたいことを言うなら論文を書け、
と僕はよく言う。それは、論文が直接だからだ。
僕はいまだに実写「キャシャーン」を許していない。
それは、ただの論文だからだ。
ついでに、「イン・ザ・ヒーロー」も許していない。
唐沢のアツイ台詞は、単なる論文に過ぎなかったからだ。
しかし、それはその言いたいことを生身で証明するという、
前提ありきだから許せた。
それが生身でない段階で、それはただの論文と堕したのだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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