2014年09月14日

「十二人の怒れる男」の研究

ワンカットワンシチュエーションものを考えていて、
密室ものを研究しようと思い、生涯三度目の観賞。
ワンカットものにはなんの参考にもならなかった。
何故か。
撮影技術的にはたいしたことをしてないからだ。

この作品は、話だけで持たせている、稀有な映画だ。
話とは何か。その本質をこの作品は教えてくれる。

(以下ネタバレ)


僕はお話とは、
「話し手と聞き手の間の頭の中で共有されるもの」だとよく言う。

だから凄いビジュアルとか3Dは、お話には必要ない。
そのお話が面白ければ面白いほど、
聞き手の頭の中に、勝手に凄い想像が広がるからだ。
そのすごさは、どんな凄いビジュアルより凄く、
どんな3D映像より立体的だ。
バーチャルリアリティー技術がどんなに進んでも、
お話の想像には勝てない。

これが僕がCGなどの最新技術に否定的な根拠だ。
2Dの映画だとしても、本当に感情移入していれば、
没入したその世界は3D(以上)に見えているはずだ。

逆に、貧弱なビジュアル表現から想像を膨らませて、
最新バーチャルリアリティー以上のリアリティーを見せてしまうのが、
お話というマジックだ。
我々はその魔法使いである。

それが分かっている人は、わざとビジュアルを貧弱につくることもある。
何故演劇は黒バックなのか。想像で背景の代わりとするためだ。
何故人形劇が、リアル以上にリアルになる瞬間があるのか。
お話の力である。
想像力を働かせるためには、行間が必要なのである。
(風魔やいけちゃんは、リアルに予算が足りなかったです。
しかし、話にのめり込めば低予算は気にならないようにしてあります。
きついのは序盤だけ。何故?
お話が面白いから、それは気にならなくなるのです)

つまり、極端に言えば、お話にビジュアルは不要である。
ラジオドラマが成立するのはそういう理由だ。
(勿論、客の集中力がいるので万人向けではない。
ビジュアルをつけるのは、元々サービスのようなものだ)


さて。この映画は、お話の映画だ。

あるお話、つまり殺人のストーリーを、
12人の陪審員が頭に浮かべ、
それと我々の間で共有する、という、お話の根本構造なのである。
つまり、これはお話ではなく、お話のお話だ。

殺人事件のシーンはこの映画の中にない。
しかし我々の中で、陪審員の中で、
それを必死にイメージし、共有する映画だ。
そして、それが、「おかしいのではないか」という疑問からはじまり、
ひとつひとつ検証し、
「有罪というには証拠不十分」として無罪に至る映画だ。

これを推定無罪というらしいが、日本人には難しい概念だ。
疑わしきは罰せず、というが、
今の日本人は、グレーは黒と思いがちだ。
三谷版「十二人の優しい日本人」ではだから、
証拠不十分ではなく、完全に誤解であった、
という分かりやすい大逆転劇に翻案されている。
(その肝がダジャレなのが、ダジャレの嫌いな大阪人として認めがたい)


我々は、頭の中に一端構築された殺人場面を、
次々に再構築していかねばならない。
ドミノ倒しのようにそれがイメージの中でひっくり返っていく。
これがこの映画の最大の面白さだ。

だから、「狭い密室劇なのにそれを感じさせない」のは当たり前だ。
我々は狭い密室の十二人をスクリーンで見ていながら、
実際は頭の中で殺人場面を見ているのである。
(つまり、密室ものでは、密室の話ではなく、
別のことを話題にするのがよいと言うことだ)


脚本技術的に注目すべきところ。

1ロール、15分が経過するまで、
実は審議が始まっていない所に注目したい。

最初の15分では、はじめようと思うのだが、
「老人がトイレにいったので、それを待つまではじめられない」
という何気ない、素晴らしいアイデアによって、
セットアップを巧みにこなす。

議長役の選出や、これが12人全員合意でないと駄目なこと、
有罪なら死刑が決まること、黒人の貧民への偏見などだ。
同時に、暑くてたまらんこと、
最近の若者は信用できない3番、
早く野球を見に行きたいから終わらせようぜという7番、
風邪を引いてティッシュを離せない10番などの、
目立つキャラがセットアップされる。
(よく考えると、これらは対立者に最終的になる)
投票結果、一人だけが無罪を主張する。8番の登場だ。
ここがカタリストポイントとなり、話がはじまる。

2ロール目の上手いところは、
「一人一人主張を述べよう」というところだ。
これで事件の詳しくがわかる。
変わったナイフが使われたこと、
老人が声をきき目撃していること、
向かいの女の目撃、
容疑者が戻ってきて映画を見ていたとアリバイを言ったが、
その題名を答えられなかったこと。
(この最初の条件を二幕以降で次々に崩していくこととなる)

しかも上手なのは、同時にキャラを立てているところだ。
一人一人の言い方、考え方、背景が透けて見えるように台詞を組む。
同時に事件の内容を、我々観客も含む、十二人の頭の中にイメージさせる。

変わったナイフかどうか証拠をもう一度見てみようと8番が面倒なことを言うのが、
第一ターニングポイントブロックのはじまりだ。
もう一個同じナイフが出てきて、机に突き立てられるショッキングな絵が、
第一ターニングポイントである。
ここまでで、ほぼ完全にセットアップが終わっている。
メインキャラのキャラ立て、事件の内容、陪審員の最終目標、
そしてセンタークエスチョン「この有罪は本当か?」だ。

自分がもしこの脚本を書くとしたら、
と考えるだけで空恐ろしくなる。
ここまで上手くセットアップ出来るだろうかということに。

十二人を捌くのは大変だ。
目立つキャラを立て、それが対立者になるところまではなんとかなるかも知れない。
窓の外の天気を使うアイデアも思いつくだろう。
(雨と野球の中止はうまい)
しかし、老人のトイレ待ちはなかなか思いつかないと思う。
はやくはじめて終わらせようぜ、の雰囲気を作りながらも、
やらなきゃいけないことを上手く話しながらセットアップし、
老人が帰ってきた瞬間さあはじめようになる、
その段取りの上手さが、一幕のハイライトだ。


二幕、三幕はこれをひとつずつ崩していくだけだ。
実にオーソドックスにやるだけである。



実は、この映画は議論の映画である。
ある結論に至る、その前提を疑え、ということだ。
推論自体が正しくとも、その前提が間違っていたら正しくない。
その前提を詰めていくのが議論である、
という考え方の下に組み立てられている。

そしてその前提は、偏見や、思い込みで簡単につくられてしまう、
という恐さを描いてもいる。

また、彼らは議論のルールをちゃんと守っている。
当てずっぽうの結論ではなく、根拠をいえ(why!)、
と8番が7番に詰め寄るシーンはすごい。
そして「有罪とは思えなかったから」という
単純な(恥ずかしい)理由だったとしても、
論理的に正しいがゆえに、
ちゃんとその主張を認める皆もすごい。

また、風邪っ鼻の10番が偏見丸出しで根拠を述べる後半戦で、
全員が話し合いのテーブルから立つ、
というところもハイライトだ。
話し合いのテーブルは、偏見のためでなく議論の為にあるのだ、
ということを絵で示している素晴らしさ。

12番のトリックスター(広告代理店)も効いている。
他人の意見にフラフラするのは、一見ギャグだが、
その理由が論理的に正しければそれ自体は構わないという態度が徹底されている。

ラスト、3番が折れるのも、
自分の中の偏見「若者は信用できないから」は、
論理的に認められないことを知ったからだ。

彼を囲む11人の怒れる男は、彼自身に怒っているのではない。
偏見ゆえに論理的結論を出せないことに怒っているのだ。
だからそれを認められた3番も含めて、
検察側の杜撰な捜査を糾弾する、「十二人の怒れる男」になるのである。


日本人は、ここまで理性だけで議論することが可能だろうか。
2ちゃんでこんな議論はない。
偏見と感情と中傷丸出しで、
理性だけでここまで議論する、教育も教養もないのではないだろうか。
(メアリースーテストで偶然たどり着いたサイト、
「iwatamの個人サイト」内の「議論のしかた」はとてもよい。
これは教科書クラスだ。
問題は、全員がこれを出来る能力があるかだ)

この映画は議論の教科書だ。
疑わしいことがあるのなら、
それを検証反駁し、前提を崩すことのプロセスを述べている。
それが、陪審員という法律の専門外の人でもなしえることを描いている。
つまりこれは、
普通の人に備わっているはずの、理性を信じる映画なのだ。



さて、脚本技術的にもうひとつ。

一幕のセットアップをもう一度見てみよう。
議論で崩すべきは、前提である。
それは、偏見や思い込みや、はやく帰りたい故にさっさと終わらせたいことだ。
そして、誤解されている事件そのものだ。
その全てが、過不足なく一幕でセットアップされていることに、
驚く。

序破急などという生易しいものではなく、
崩されるもの、崩すこと、最後のひと突き、
の3ブロックと考えるとよいかもしれない。

そして最初に味方になり、最後まで一貫して理性を保った老人9番が、
遅れてきたトイレに行ってた人、という構造が無駄なく完璧だ。

(注:この映画には十二人に役名がない。
それは名も無き市民というこの映画のテーマから明らかだ。
しかしこういう批評をするとき、ややこしくてしょうがない。
テーブルについた席順、陪審員番号順に○番表記をした。
ちなみに、
1:議長、ラグビーの監督
2:弱気のハゲ、童貞っぽい。ユダヤ人?
3:対立者。ラスボス。息子の写真を持っている
4:医者?固そうな職業の理性の人、メガネ。
5:元スラム出身。偏見のこと、ナイフの刺し方で活躍。
6:職人のペンキ塗り。鉄道の近くはうるさい。
7:前半の対立者。はやく帰りたい。野球みたい。
8:主人公。疑うから、話したい人。
9:老人。最初に理性を発揮した。
10:対立者。風邪っ鼻。偏見に満ちた権化。
11:移民の外国語訛り。言葉を俺に教えるのか?と言われる。
12:トリックスター。広告代理店。
のようなナンバリング。
なお、絵に出ている人で、
容疑者の少年、廊下の外に控えている人がいる。
出演者は12人ではない。外の人がいる、ということが重要だ)
posted by おおおかとしひこ at 14:39| Comment(6) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
【ネタバレあり】

12人の怒れる男は私も大好きな映画です。

ただ、「3:対立者。ラスボス。息子の写真を持っている」の男性が最後まで有罪を主張する動機の部分がカットされているのがすごく残念です。

この男性は息子をスラムの人間に殺されたという過去を持っています(中盤くらいでは写真を見せてさも今もどこかで生きているかのように話していました)。

脚本的にはどう考えてもカットしてはいけない部分だと思います。映像が残っていないらしいので仕方ないですが…。
Posted by 見習いO at 2015年10月19日 21:29
見習いO様コメントありがとうございます。

それは知らなかった。情報あざす。
内容的にカットするべきでないという主張も分かります。
けど、殺したという事実を残すことで、
その映画を見た観客たちが、
やっぱりスラムは許しがたい人たちばかりなのだ、
と偏見を助長してしまうのも良くないですねえ。

スラムを在日とか黒人とか生きる価値のないブスとかキモヲタとか身障者
などに置き換えると、分かりやすいかもですね。

表現は政治でもあります。
権力のある側がない側を貶めないように配慮するべきです。
ネットがない時代、主張は街角デモか教会でしか出来なかったでしょうし。
舞台ならあり得る表現でも、映画では配慮した可能性がありますねえ。
難しい議論です。
映画の枠内だけではない問題ですね。

こういうのを作るときの腹のくくり方は、
監督一人じゃ決められないんだよなあ。
(だから一人で腹のくくれる舞台版が先にあったとも言える)
Posted by 大岡俊彦 at 2015年10月20日 00:28
そういう考え方があるのですね。私は「カットした人間が脚本に明るくなかったのかな?」くらいに考えていました。私にはない見方でした。どうもありがとうございます。
Posted by 見習いO at 2015年10月20日 02:16
逆に考えましょう。
脚本に詳しい人がカットしたのだと。

3番を、
「スラムの中には色々いる、息子を殺した奴もいるし、こいつはやってない」という二律背反のオチに落とすより、
「人種偏見は常にある。しかし理解できないからと言って疑うのは理性の敗北であり、
理性こそどんな市民も持て得る正義である」
というオチへ、カットしたことによって改変したのだと。
二色同時存在のオチより、黒から白へ一気に傾くダイナミズムも注目ですが、
受け入れる側のことも考えています。

前者のオチは、既に人種偏見を脱した人にしか分からない、高度な結論です。
当時の民衆も、今の民衆も、後者の結論しか受け入れられないでしょう。
前者のオチを受け入れることは、自分の中に矛盾の存在を認めることだからです。
そこまで勇気のある人は、僕は全員ではないと思います。
一方、後者は、民主主義の前提です。
民主主義、市民社会の讃歌というのはそういうことです。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年10月20日 08:13
そういう見方もできるのですね。私は事情や制限が特になければ、3番の動機をカットせずにきちんと書いたほうがいい映画だと思います。

私にはこの映画を初めて観たときに違和感があったシーンがあります。それはクライマックスで3番が息子の写真を破って泣き崩れながら”有罪”から”有罪とは言えない”に変えるシーンです。最初、私はこのシーンにものすごく飛躍を感じました。

その飛躍の正体はamazonのレビューを読んでいて判明しました。すでに書いた3番の動機がカットされていることです。

3番には、息子さんの写真をいまだに持ち歩き、他の陪審員にさも息子はまだどこかで生きているように話しているシーンがあります。3番の動機を知った後にこのシーンを見ると、私は3番がいかに息子さんのことを大切に思っていた(いる)か、息子さんにいかに大きな期待を抱いていたかを感じます。同時に、その息子さんを殺された無念さも感じます。息子を愛し、息子が殺された無念を今も引きずっているからこそ、3番は自分が偏見を持っていると気づいていながらも有罪を主張し続けたのだと思います。

クライマックスの3番が息子さんの写真を破くシーンは、3番が自分の中の偏見を打破したことの象徴だと私は思います。3番のカットされた動機の部分があればこそそう見れるのだと思います。

私は文章を書くのが上手くありません。どこまで伝わっているか不安です。大岡さんの見方に反対しているわけではありません。一つの見方として読んでいただけたら幸いです(カットされた部分を実際に観ると意見が変わる可能性はあります)。
Posted by 見習いO at 2015年10月20日 16:31
説明は伝わります。

カットすることで、
感情的判断と理性的判断の闘いになるということですね。
でもこれは第二ターニングポイント前に、
全員が席を立つところで、既にやってしまっているため、
カットしないとすると、
同じことの繰り返しに見えた可能性があります。

それをカットすることで、
感情的にではなく、
一人の市民としてどう決断するか、
という収束に持っていった可能性が高いですね。

脚本を書くとき、リライトするとき、
撮影するとき、編集するとき、
まさにこのような議論を皆でするわけです。

映画は一気見するもの。
要素を削ることで見やすくなる、という面もあります。
集中力が途切れて、情に話が流れる可能性もあるので、
カットは適切な判断かなと。

ルパン三世カリオストロの城で、
水が引いて古代都市が現れたあと、
もうひとチェイスあったんですって。
これも、カットが適切だった例ですかね。

どこでお腹一杯にするか、という判断もあるものです。
Posted by 大岡俊彦 at 2015年10月20日 18:48
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