ちょいちょい小説なるものを研究している。
脚本とどう違うのかを考える為だ。
そこで地の文という、脚本のト書きとは全く別の性質を持つものについて、
議論した。
もう少し抽象的にとらえると、
小説は思考の流れを書くものであり、
脚本は意味の流れを書くものだと対比できる。
どちらも物語、
すなわち事件と解決とそれに関わる登場人物を描くものである。
厳密な三人称視点を除いて、
小説では、人物の考えや思考過程や思いを、
地の文で書いても構わない。
それを他人にわざわざ言う(台詞)か、
読者に開示する(地の文)かの違いであり、
読者はそのとき、
事件の進行ではなく、
「思考」に一体化することになる。
また、人物の思考だけでない思考を混ぜることも可能だ。
「○○という男がいました。間抜けな男でした。」
は、作者の主観、判断、思考である。
○○が客観的に間抜けかどうかはここでは分からない。
したがって、脚本では、
誰かに「○○は間抜けなんだよ」と言わせる(弱い)か、
誰もが間抜けだと思われる失敗を観客の目の前でやる(通常)しかない。
(麦茶とそうめんつゆを毎回間違えるとか、
弁当の唐揚げを落として拾おうとしたら弁当ごとひっくり返してしまうとか、
人が良すぎて保証人になり借金地獄とか、それは物語の性質による)
その客観的事実を目の前で見せ、
○○は間抜けだなあ、と観客全員に判断してもらう必要がある。
つまり、脚本は、
「○○の行動」によって、「○○は間抜けだ」という意味を見せている。
これは思考ではない。
思考するのは寧ろ意味を読み取る観客だ。
小説では、
「大人になることは傷を背負うことだ。○○にもその日が訪れた。」
のように、大人であることの作者の思考を、
地の文に書いてもよい。
脚本では、「大人であることは傷を背負うこと」に相当する、
何らかの人間ドラマを描き、「そうだよな、傷を背負うことが大人になることかもな」
という感想を持たれなくてはならない。
(或いは、人生の達人から台詞で言われることもある。
しかしその台詞が効果的に効くには、台詞単発ではただのたわごとで、
そのようなドラマが既に描かれ終わったあとに言うことだ)
つまり、小説は、地の文の殆どで、
思考の流れを書くことができる。
内面描写と言われるものはこの一部だ。
これは、脚本では出来ない。
登場人物の思考の流れは、
モンタージュか、台詞で長く言うか、行動から我々が推理するしかない。
作者の思考は、第三者視点にはない。
あるとすると、この世界の存在自体が作者の思考だ。
(だからよくわからなかった詰まらない映画は、
作者はこの世界で何がしたかったのか、とか、
この○○は△△を暗示しているのではないか、という論争になる)
極端に言うと、脚本に作者の思考は書いてはいけない。
何故なら、
第三者視点の脚本という物語形式は、
目の前から「意味を読み取る」こと(間抜けだと読み取るように)だからだ。
作者の思考が読み取れるように、暗示形式ならばそれを実現可能である。
(それを大きな意味でテーマということもある)
脚本はだから、これが何を意味しているかという、
意味の流れなのだ。
小説における、思考の流れとは、
別の原理で物語を表現する、別ジャンルなのである。
小説は、漫談や落語のほうが、脚本より近いかも知れない。
それぐらい、
表現のための道具も、書かれている内容の種類も違う。
もしあなたが思考を書きたいのなら、小説を書け。
もしあなたが意味の暗示を書きたいのなら、脚本を書け。
ちなみにこの議論は、次に書こうと思っている、
インザヒーローの脚本家を非難するための、枕である。
2014年09月15日
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