2014年09月16日

「イン・ザ・ヒーロー」の脚本は何が問題か

脚本家の名は水野敬也という。
「夢を叶えるゾウ」の作者だ。
彼の持ち味は、ざっくり言うとノウハウ系だと思われる。
新しい考え方を世に広めるのが上手なのが才能のようだ。
(著作を全部見たわけではないので、推測)

ゾウはドラマ版は見た。詰まらなくて数話で脱落した。
おそらくこのへんに「イン・ザ・ヒーロー」と共通の問題点が浮かび上がる。
「新しい考え方を世に広める」という彼の作風が、
映画進行とは極めて相性が悪いことに、彼自身自覚していない。
(本論の前に前項が前提になっている。
また、以下はネタバレ前提である)



前項での議論は、
小説は思考の流れ、映画は意味の流れ、ということだ。

「新しい考え方(思考)を世に広める」のは、
小説でやれることで、小説ですべきことである。

一方、映画ではこれは出来ない。
出来ないと断言しよう。
「新しい考え方を作中で表現する」場合、
映画では台詞で言うしかないからだ。
これは、演説になってしまうということだ。

その演説単体にどんなに聞く価値があっても、
映画内では誰も聞いてくれない。
それは詰まらない説明台詞と同じ価値しかない。

何故なら、映画とは焦点を追うものだからである。


焦点とは事件の流れのことだ。
それが一体どうなるか、誰が何を狙っているのか、
彼の真意は、などが焦点のことである。

台詞とは、それへの登場人物の感情的リアクションや、
新たなる行動へ繋がることしか言ってはならない。
それが焦点を保つということであり、
それ以外の台詞、例えばおしゃべりや説明台詞は、
焦点をぼけさせる。

つまり、退屈にさせる。


映画では、登場人物の哲学を台詞で言ってはならない。
行動で示し、観客がそこから読み取るようにする。

たとえばダーティハリーは、
「凶悪犯は撃ち殺すべきだ」という無茶な、
徹底した現実的戦闘主義だ。
彼が彼の信念を語らず、行動で示すから映画的ヒーローなのだ。
(ごく短く言うことはある。大抵これが名台詞になる)

彼がもし自分の信念を饒舌に語るとしたら、
反対意見の人を説得するときだけだ。
「たとえ凶悪犯だとしても人権を尊重し、話し合いで…」というへなちょこに、
ふざけるな、甘いこと言ってるんじゃねえ、という場面で言うはずだ。
つまり、コンフリクトの中でこそ、信念の衝突の形で、
目に見える形をとるものである。


新しい考え方をそのまま語るのは、
小説では可能だが、映画では不可能だ。
可能だとすると、コンフリクトの文脈である。

脚本家水野敬也は、その基本を知らなかったらしい。


良く良く考えると、
「インザヒーロー」の脚本は、
唐沢が福士に「薫陶を垂れる」場面ばかりだった。
それが相手にされない、という空回りはあったが、
何か別の考え方と対立することはなかった。

「あんたはアクションだけやってりゃいいんだよ。
台詞言うのは百年早い。俳優は台詞言えてなんぼだろ」
という若手俳優とケンカ=コンフリクトをするシナリオだってあり得る。
それが母探しって。どこの韓国ドラマだよ。
何度か述べているが、サブプロットは、メインテーマのサブ問題であることが理想である。
つまり福士のサブプロットは、メロドラマではなく、
「アクションは素晴らしい」ことへのアンチテーゼになるべきだったのだ。

つまり、この映画は、単なる演説台詞の映画だ。


「夢を叶えるゾウ」のドラマも、
まさにそのつまらなさで僕は見るのをやめた。
なんだこりゃ、ノウハウ系?新興宗教の自己啓発?
という胡散臭さを感じ、作劇ではなく知識伝授という感じに辟易した。
似たようなドラマに「ドラゴン桜」がある。
漫画版の大ファンだったが、ドラマは詰まらなかった。
漫画ではノウハウを描ける。
しかし作劇がなかった。ノウハウを描くのは、物語ではないのだ。


物語は事件である。
事件と解決である。

そこに「新しい考え方」が登場するのだとしたら、
「解決の武器」以外にないはずだ。

しかるに、「インザヒーロー」内で、
唐沢のアツイ考え方は、何か問題の解決をしただろうか。
それは、脚本家が唐沢の口を借りて演説していたに過ぎないのだ。


しかもだ。
それらが真のテーマ
「正義やヒーローは実在する。ただしフィクションの中で。
我々はそれを本気で信じてつくる者である」
のための前ふりで、
これこそが本当に描かれるべきだったのに。

それはあのたった大一番の一回のスタントを、
生でやればよかっただけなのに。
(台詞で説明しては駄目だ。行動で意味を示すのが映画だ)

そこで嘘(CG)つくんだもの。


水野敬也という人は自己啓発本や小説を書くのは天才かも知れない。
新しい考え方を、思考の流れを書くことは天才かも知れない。
そこは脚本家の領分ではないので立ち入らない。

しかし、脚本家としてはドシロウトである。
意味を行動から読み取らせる芸術が、何一つ出来ない、
脚本家としてあまちゃんだ。
一生思考を現実化する演説原稿書いてやがれ。キリヤと同じだ。
キリヤは俺の大好きな新造人間キャシャーンを貶めたが、
水野は俺の大好きな特撮ヒーローアクション全体を貶めた。

「太秦ライムライト」の素晴らしいラス立ちを見て、
更に腹が立ってきた。
あの映画の中では、
本当の「ヒーロー」(フィクションの中のヒーロー)がいて、
本当の「悪の死」(フィクションの中の)が描かれている。
混ざりもののない、本当の肉体言語で、
無言で「勧善懲悪のアクションは素晴らしい」と主張している。
posted by おおおかとしひこ at 03:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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