快感曲線は、盛り上がり曲線と一致する。
何故なら映画とは、エキサイティングなリアルタイムの体験だからだ。
思考の流れという純粋理性のものではなく、
音楽や刺激に満ちた、物語のうねりというダイナミズムに身を任せることだ。
(以下、下ネタ全開のため、苦手な方はここでおしまい)
クライマックスはピストンである。
体位は何回か変えよう。
色々に芯を突こう。
強さや激しさもいいが、
本当に大事なことは、的確に芯をとらえることだ。
挿入は第二ターニングポイントだろうか。
もう少し前でよいかも知れない。
ものによっては、ミッドポイントをすぎたあたりで挿入し、
一回戦終え、一休みして、再度クライマックスにいくかもしれない。
二回戦だろうが一回戦限りだろうが、
第二ターニングポイントが、「いよいよ」であることは同じだ。
勝負ポイントであり、緊張と期待と、最高の楽しみが待っているのだ。
激しく優しく、単調にならずそれでいて最後は怒涛に。
クライマックスは翻弄である。夢中である。
そして最も待っていた瞬間、射精の瞬間こそ、
物語の解決の瞬間だ。
その瞬間、死と幸福を感じるのだ。
そのあとは、すぐに賢者モードがやってくる。
ここでダラダラやるとうっとおしい。
すぐに、すばやく、服を着てエンドロールへ行くべきだ。
解決後の後日談が長くてダメな映画は、
賢者モードになっているから、嫌われるのだ。
服を着ながらこのプレイの感想を短くまとめ、
暗転という名の眠りにつきたい。
(寝るのじゃなくてピロートークでもよいけど)
おそらくキャストスタッフロールは、眠っている途中の夢だ。
記憶の整理に使うのだ。
それが終わると、劇場の電気がつき、朝という現実になる。
昨夜のセックスを、我々は噛み締めながら日常へ帰るのだ。
第二幕に話を戻すと、
第二幕は前戯である。
どんなコースでいくか、組み立てを考え、
時にアドリブで痒いところをかくとよい。
単調にせず、色々な所を攻めるとよい。
攻めかたも、それぞれによって異なる。
反応を見ながらが確実だ。
しかし反応を伺うだけでなく、時に強引にいくことも大事だ。
その緩急や山谷が、魅了させるのである。
期待、期待の裏切りを上手く使う。
その展開次第で、クライマックスに流れを渡す。
ミッドポイントでひとつヤマをつくるとよい。
それが道筋のメリハリを整えるだろう。
快感とは生理的リズムである。
その周期に熟達することだ。
第二幕は、最も自由度の高い、
クリエイティビティの必要とされるパートだ。
第一幕は何に当たるだろう。
キスか。否。デートである。
相手は「今日はセックスしてもいいかな」と思って来ている。
思って観客席に座っている。
「しかし下手な(詰まらない)誘いには乗らない」とも思っている。
日常からはじめて、
本心は非日常へ冒険したい観客へ、
「セックスしてもいい(むしろしたかった)」と思わせるのが一幕だ。
いつでも日常へ戻れる。
しかし非日常への冒険を選ぶ。
嫌々ではなく、進んで。
そのような「心の動きをつくること」が第一幕だ。
だから第一ターニングポイントは、
セックスしようぜ、OK、の、
何かしらの合図だ。
オープニングで度肝を抜くのは、
上級者だろう。
下手はそのあと回復出来ないから、
地味に真摯に徐々に心をほぐしていくとよい。
向こうもしたいと思っているから、怖がらなくていい。
しかし、それは変とか、おかしい、騙そうとしている、
と思われたら心は閉じてしまう。
この人に体を預けてもいいと、信用されるべきである。
それを、セックス実技ではない部分で行うのだ。
カタリストとは、その心が動く箇所だ。
これまで日常世界に身を浸していたが、
非日常世界へ心が動いていくところだ。
最初はおずおずとしているだろう。
次第にそれを育てて、冒険への期待を膨らませ、
第一ターニングポイントで決定的にする。
それは人によっては手を繋いだりキスだったり、
言葉だったり、家にあげることだろう。
セックスは一種の冒険である。
しかし終わったあと、どうしてしたのか、
ということに意味が欲しい。
愛しているから、寂しかったから、好きだってずっと言われてたから、
なんでもいい。終わったあとの意味だ。
それがテーマだ。
遊びだったとか、ムラムラしてた、などの動物的理由ではなく、
理性で認識したがる。
人はセックスを、ただの遊びではなく、
理性的に意味のあったこととして、認識したがる。
今度セックスするときは、三幕構成に気をつけながらセックスをしよう。
さて、以上の議論は、
男の快感曲線の話である。
女の快感曲線は、また違うことに注意されたい。
一回イッても、それから何回でもイキたいらしい。
レズビアンのセックスを見ていると分かる。
彼女たちは、ヤマを迎え峠を越えたい、
という欲望より、
一端峠を越えたら、峠をもう一度迎えることより、
ただ触れ合ってイチャイチャするだけで快感なのだ。
一度敏感になれば、ただ触るだけで峠近くまでいくのだ。
それをずっとキープし続けることが快感らしい。
(ずーっとやれるらしい。俺らには無理。賢者になるし)
だから終わりはなく、朝まで絡み合うのは嘘ではないそうだ。
僕は生理的にそこが同感できないのでなんともだが、
実はこのような快感曲線で書かれた物語形式がひとつだけある。
二次創作のヤオイ(実質BL)である。
一度オリジナル作品で満足したら、
二次創作でそれを永遠に再生産し続けることがそうだ。
だから、二次創作でヤマオチイミがないのは当たり前なのだ。
ずっと触れあっていたい、イチャイチャしていたい、
という女の快感曲線の反映なのである。
いわゆるBLで、セックスそのものよりもイチャイチャのほうがメインなのは、
そしてその方が楽しそうなのは、
それが快感だからなのだ。
(逆に男が描く二次創作は、一発やる、そのプレイ内容とヤマ=射精である)
今のところ、
商業作品にその快感曲線が描かれているのは、
シリーズものである。
「その世界でずっと触れあっていたい」が、その隠された欲望であると僕は考える。
勿論、僕はヤオイ世界にそこまで詳しくないので、
この分析が全く違う可能性もあることをご容赦頂きたい。
ただ、長年漏れ聞こえてくるものを見ると、
そうとしか考えられないのだ。
女の監督(例えばソフィアコッポラ)と、
僕は生理的なリズムが全然合わない。
それは、作品の感性というより、
もう少し動物的な根拠なのではないのか、
と思っている。
女は地図が読めず、周りに並べるのが快感だ。
男は地図を読み、組織化することが快感だ。
(例えばAKBの楽しみ方は組織上の人事異動だが、
ホストの楽しみは本命と延々イチャイチャすることだ)
それは、動物的な快不快の曲線にも現れると僕は思っている。
それらを意識して、
セックスしたり、映画を見たりしてみよう。
ビバセックス! ビバ映画!
(9/17追記:セックスも脚本も、
「分かってるだけじゃだめで、出来なければならない」ことは同じだ。
「出来ないときは、分かると出来るようになる」ことも同じだ。
「分からなくても出来ることもある」ことも同じだ。
「出来ないからといって、分かっていない訳でもない」ことも同じだ。
「毎回出来る訳でもなく、ケースバイケース」なことも同じだ。
「それでも打率のいい人が優秀と言われる」ことも同じだ。
「経験、理論、実践、才能」が絡み合っているのも、同じだ。
ちなみにこの記事だけやたらとアクセスが悪い。
みんな下ネタ嫌いなのかな。
人間の一番コアの部分だと思うのだが、
芸術とは人間の根本に肉薄することではないのか)
2014年09月16日
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