2014年09月16日

セックスで例える脚本論

快感曲線は、盛り上がり曲線と一致する。
何故なら映画とは、エキサイティングなリアルタイムの体験だからだ。
思考の流れという純粋理性のものではなく、
音楽や刺激に満ちた、物語のうねりというダイナミズムに身を任せることだ。

(以下、下ネタ全開のため、苦手な方はここでおしまい)


クライマックスはピストンである。
体位は何回か変えよう。
色々に芯を突こう。
強さや激しさもいいが、
本当に大事なことは、的確に芯をとらえることだ。

挿入は第二ターニングポイントだろうか。
もう少し前でよいかも知れない。
ものによっては、ミッドポイントをすぎたあたりで挿入し、
一回戦終え、一休みして、再度クライマックスにいくかもしれない。

二回戦だろうが一回戦限りだろうが、
第二ターニングポイントが、「いよいよ」であることは同じだ。
勝負ポイントであり、緊張と期待と、最高の楽しみが待っているのだ。
激しく優しく、単調にならずそれでいて最後は怒涛に。
クライマックスは翻弄である。夢中である。
そして最も待っていた瞬間、射精の瞬間こそ、
物語の解決の瞬間だ。
その瞬間、死と幸福を感じるのだ。

そのあとは、すぐに賢者モードがやってくる。
ここでダラダラやるとうっとおしい。
すぐに、すばやく、服を着てエンドロールへ行くべきだ。
解決後の後日談が長くてダメな映画は、
賢者モードになっているから、嫌われるのだ。

服を着ながらこのプレイの感想を短くまとめ、
暗転という名の眠りにつきたい。
(寝るのじゃなくてピロートークでもよいけど)
おそらくキャストスタッフロールは、眠っている途中の夢だ。
記憶の整理に使うのだ。

それが終わると、劇場の電気がつき、朝という現実になる。
昨夜のセックスを、我々は噛み締めながら日常へ帰るのだ。


第二幕に話を戻すと、
第二幕は前戯である。
どんなコースでいくか、組み立てを考え、
時にアドリブで痒いところをかくとよい。
単調にせず、色々な所を攻めるとよい。
攻めかたも、それぞれによって異なる。
反応を見ながらが確実だ。
しかし反応を伺うだけでなく、時に強引にいくことも大事だ。
その緩急や山谷が、魅了させるのである。
期待、期待の裏切りを上手く使う。
その展開次第で、クライマックスに流れを渡す。

ミッドポイントでひとつヤマをつくるとよい。
それが道筋のメリハリを整えるだろう。
快感とは生理的リズムである。
その周期に熟達することだ。

第二幕は、最も自由度の高い、
クリエイティビティの必要とされるパートだ。


第一幕は何に当たるだろう。
キスか。否。デートである。

相手は「今日はセックスしてもいいかな」と思って来ている。
思って観客席に座っている。
「しかし下手な(詰まらない)誘いには乗らない」とも思っている。
日常からはじめて、
本心は非日常へ冒険したい観客へ、
「セックスしてもいい(むしろしたかった)」と思わせるのが一幕だ。

いつでも日常へ戻れる。
しかし非日常への冒険を選ぶ。
嫌々ではなく、進んで。
そのような「心の動きをつくること」が第一幕だ。
だから第一ターニングポイントは、
セックスしようぜ、OK、の、
何かしらの合図だ。

オープニングで度肝を抜くのは、
上級者だろう。
下手はそのあと回復出来ないから、
地味に真摯に徐々に心をほぐしていくとよい。
向こうもしたいと思っているから、怖がらなくていい。

しかし、それは変とか、おかしい、騙そうとしている、
と思われたら心は閉じてしまう。
この人に体を預けてもいいと、信用されるべきである。
それを、セックス実技ではない部分で行うのだ。

カタリストとは、その心が動く箇所だ。
これまで日常世界に身を浸していたが、
非日常世界へ心が動いていくところだ。
最初はおずおずとしているだろう。
次第にそれを育てて、冒険への期待を膨らませ、
第一ターニングポイントで決定的にする。

それは人によっては手を繋いだりキスだったり、
言葉だったり、家にあげることだろう。


セックスは一種の冒険である。
しかし終わったあと、どうしてしたのか、
ということに意味が欲しい。
愛しているから、寂しかったから、好きだってずっと言われてたから、
なんでもいい。終わったあとの意味だ。
それがテーマだ。
遊びだったとか、ムラムラしてた、などの動物的理由ではなく、
理性で認識したがる。
人はセックスを、ただの遊びではなく、
理性的に意味のあったこととして、認識したがる。


今度セックスするときは、三幕構成に気をつけながらセックスをしよう。



さて、以上の議論は、
男の快感曲線の話である。

女の快感曲線は、また違うことに注意されたい。
一回イッても、それから何回でもイキたいらしい。
レズビアンのセックスを見ていると分かる。

彼女たちは、ヤマを迎え峠を越えたい、
という欲望より、
一端峠を越えたら、峠をもう一度迎えることより、
ただ触れ合ってイチャイチャするだけで快感なのだ。
一度敏感になれば、ただ触るだけで峠近くまでいくのだ。
それをずっとキープし続けることが快感らしい。
(ずーっとやれるらしい。俺らには無理。賢者になるし)
だから終わりはなく、朝まで絡み合うのは嘘ではないそうだ。

僕は生理的にそこが同感できないのでなんともだが、
実はこのような快感曲線で書かれた物語形式がひとつだけある。

二次創作のヤオイ(実質BL)である。

一度オリジナル作品で満足したら、
二次創作でそれを永遠に再生産し続けることがそうだ。
だから、二次創作でヤマオチイミがないのは当たり前なのだ。
ずっと触れあっていたい、イチャイチャしていたい、
という女の快感曲線の反映なのである。

いわゆるBLで、セックスそのものよりもイチャイチャのほうがメインなのは、
そしてその方が楽しそうなのは、
それが快感だからなのだ。
(逆に男が描く二次創作は、一発やる、そのプレイ内容とヤマ=射精である)

今のところ、
商業作品にその快感曲線が描かれているのは、
シリーズものである。
「その世界でずっと触れあっていたい」が、その隠された欲望であると僕は考える。

勿論、僕はヤオイ世界にそこまで詳しくないので、
この分析が全く違う可能性もあることをご容赦頂きたい。
ただ、長年漏れ聞こえてくるものを見ると、
そうとしか考えられないのだ。


女の監督(例えばソフィアコッポラ)と、
僕は生理的なリズムが全然合わない。
それは、作品の感性というより、
もう少し動物的な根拠なのではないのか、
と思っている。

女は地図が読めず、周りに並べるのが快感だ。
男は地図を読み、組織化することが快感だ。
(例えばAKBの楽しみ方は組織上の人事異動だが、
ホストの楽しみは本命と延々イチャイチャすることだ)
それは、動物的な快不快の曲線にも現れると僕は思っている。


それらを意識して、
セックスしたり、映画を見たりしてみよう。
ビバセックス! ビバ映画!


(9/17追記:セックスも脚本も、
「分かってるだけじゃだめで、出来なければならない」ことは同じだ。
「出来ないときは、分かると出来るようになる」ことも同じだ。
「分からなくても出来ることもある」ことも同じだ。
「出来ないからといって、分かっていない訳でもない」ことも同じだ。
「毎回出来る訳でもなく、ケースバイケース」なことも同じだ。
「それでも打率のいい人が優秀と言われる」ことも同じだ。
「経験、理論、実践、才能」が絡み合っているのも、同じだ。

ちなみにこの記事だけやたらとアクセスが悪い。
みんな下ネタ嫌いなのかな。
人間の一番コアの部分だと思うのだが、
芸術とは人間の根本に肉薄することではないのか)
posted by おおおかとしひこ at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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