2014年09月16日

詰まらない脚本が生まれる理由

今までのことを総合すると、以下のようなものだ。


1. ガワだけしか見ていない

題材の面白さ、事件の凄さ、スケールのでかさ、
ビジュアルのよさ、キャストの並びなど、
見た目の部分が映画の本体だと思っている勘違い。

脚本とは一行の文(ログライン)が最小だが、
そうではなく、
それより短い一言(名詞)で脚本を理解しようとすることが原因。
名詞は動かない。時間軸を持たない。
脚本とは、時間軸すなわち変化のことだ。


2. キャラしか見ていない

これも同じことだ。ガワが人に変わっただけだ。
人は時間軸上で変化する。
変化しない人は、変化するだけの冒険をしなかった、
単なるチキンである。
キャラ=役者ファンの存在がこれを勘違いさせる。
彼らが望むのはキャラがイチャイチャすること(二番目の目的)ではなく、
大冒険(一番目の目的)である。


3. ストーリーを自分の考えを示すものだと思っている

自分の考えを書きたければ、小説や論文やブログがよいだろう。
映画では、あなた独自の哲学を披露してはいけない。
それをすることがあなたの動機になってはいけない。
映画脚本は、その形式から最も遠い形式だ。
言動から思考を「察する」形式だからだ。
(もしするとしたら、その言葉を一語も使っていないのに、
物語を見終えた観客があなたの哲学を語り始めるようにする)


4. 主人公と作者を同一視している

主人公はあなたの分身ではない。
不幸な境遇にいる、チャンスさえあれば大逆転出来る、
ビッグマザーに愛された隠れた天才ではない。
どこかその辺の他人である。
詳しくはメアリースーの議論を参照。
脚本は、あなたの架空の活躍を描き自己満足する場ではない。
三人称視点でプレゼンするものだ。



1、2はプロデューサーに多い。
3、4はライターに多い。

こうした二人が仕事をすると、
自分からなにもしない暗い主人公が、
何故だか派手なビジュアルで豪華キャストの、
最後だけ何かちょっとだけ活躍する、
退屈な話になる。
(枚挙に暇がないが、キャシャーン、ガッチャマン、インザヒーロー、
009、るろうに、ガンツ、ヤマト、ハーロック、20世紀少年。
塁々たる死体の群れだ。見てないけど多分実写ルパンも)

これはもはや日本を覆う病である。
映画脚本とは何かを分かっていない無知ばかりでなく、
創作者として未熟な、鍛えられていない童貞だ。
創作活動とはもっと自分や世の中と向き合い、
身を切られる痛みを耐えながら、
自分自身も成長していくことだ。
それを嫌がって逃げているから、こんなていたらくなのだ。

この屍に続くな。

俺も頑張る。
(10月には何らかのアクションを起こせる、と思う)
posted by おおおかとしひこ at 14:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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