枕とは、本題の前にする話のことだ。
日常世界から本題の話へ、
我々の心が遊離するための滑走路であり、
重要な伏線ポイントであり、
本題のための初期設定でもある。
それは第一幕のことであり、大抵本題は二幕からだ。
これは、議論における、前提と同じ構造を持っている。
議論とは、
ある前提があって、
推論過程があって、
結論に至る三段構造だ。
数学的証明にせよ、現実的な議論にせよ、
(順番に話すかどうかおいといても)必ずこの構造がある。
あるいは議論とは、
この妥当な三段構造を導き出す全体工程のことをさすこともある。
現実には、推論過程が間違っていたり、
前提が間違っていたりして、
必ずしも結論が正しいと証明出来ないこともあるからだ。
数学ならばp⇒qと表記したりする。
pが前提、qが結論だ。
前提と結論だけ出して自明でなければ、間の推論過程を示す必要がある。
それを証明という。
一回それが分かったら繰り返し示す必要がないので、
qだけが一人歩きすることがある。
たいていそれを、定理とか定説とかいう。
しかし前提pが成り立たないところで定理qを主張しても、
オカシイことがたくさんある。
よく言われる都市伝説「飛行機の飛ぶ原理は分かっていない」は、
定説のように言われるが、実はこのpを詭弁としたトリックだ。
原理は分かっている。空気の浮力だ。
流体力学のベルヌーイの定理に挙動が従うため、
風洞実験やシミュレータによって、飛ぶことの最適化を行うことが出来るし、
戦闘機や航空機やミサイルはそうやって作られている。
しかし、ベルヌーイの定理がどのような媒質で成立するか、
どういうものがベルヌーイの定理の挙動をするかは厳密には分かっていない。
大気圏内の空気なら成立する。
その意味で、大気圏空気以外の媒質での飛ぶ原理が解明されているとは言えない。
そんな前提pは我々の生活では関係がないが、
結論qだけ見ると常識をひっくり返されそうだから、
怪しげな都市伝説として広まりやすい。
似たようなものに統計学がある。
たしかに中心極限定理は強力だが、
それはサンプルを正則変換したデータに限るし、
十分なサンプル数で無限大に飛ばしたときの話だ。
(ざっくり1000とか10000とか。しかしそれでも偏っていない保証はない。
公明党支持者のみのアンケート、ネット住民のみのアンケートは、
民意を反映していないと思う)
サンプル20で統計をとるなんて論外だ。
(ここで暴露するが、「いけちゃんとぼく」の「号泣率95%」という宣伝部のコピーは、
ブロガー試写20人のサンプルの統計である。
しかも、泣けたか泣けなかったかの二択で取る誘導尋問。
あほかと思った。角川宣伝部は、高校数学と大学数学をやり直すべきだ。
視聴率やアンケートは、この程度の知性に扱われている。
そしてそもそも、映画の感想は数字ではない)
さて、何の話かというと、
議論とは、前提、推論過程、結論のみっつが必要で、
にもかかわらず、多くの人は「結論しか覚えられない」ということだ。
それは、人は線を記憶出来ず点で記憶する、
という僕の仮説に近いことである。
議論は実はひとつのストーリーである。
(科学的仮説も、ひとつのストーリーをつくることだ)
ある前提のもとに、過程と結論を持つ。
映画もひとつのストーリーである。
それは外的ストーリーと内的ストーリーの重ね合わせである。
外的ストーリーは、
事件、解決過程、解決の三段構造を持つ。
内的ストーリーは、
渇き(欠落)、解決過程、克服の三段構造を持つ。
そして、その第一段階、事件や渇きを上手く描くことが、
その後のストーリーを決定的にするのだ。
議論とは、結論や過程をあれこれ言うことより、
その前提条件を詰めることだ。
(十二人の怒れる男の項で話した)
だから、映画のストーリーを上手く書くことは、
その前提、すなわち第一幕を上手く書くことなのだ。
それを、枕と言うのである。
(ということで前提の話に帰ってきて、おはなしは円環を閉じるのである)
2014年09月17日
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