2014年09月19日

理屈は書いてはいけない

プロットとは理屈である、と書いておきながら、
理屈は書いてはいけないと言う。
さてどういうことだろうか。
この辺りが、脚本表現の根本のひとつかも知れない。


起こった出来事や行動や台詞には、
一定の理屈が通っている。
問題とその解決という大きな理屈の中で、
個人の動機や他人の都合なども含む、
全ての理屈だ。

それが矛盾だったらおかしいシナリオになるし、
どこか足りなければご都合主義シナリオである。

しかしそれは、プロット段階の、骨格の話だ。

脚本表現では、その理屈を書いてはいけない。
その理屈を一文字も書くことなしに、
観客が察するように書くのである。


この男がヒロインが好きだからデートに誘う、
という理屈を、
もじもじしながらも花火大会に誘う、
という行動や文脈だけで、
ははあん、と思わせるように書くのである。

プロットとは理屈だ。
しかし現実の場面では、
その理屈は直接表面化しないものだ。

だからプロットの設計と執筆は、まるで違う行為だ。

理屈で上手く行くことを、
理屈を書かずに、その場の感情や流れで書くのが執筆という行為なのだ。


現実の脚本表現に理屈が書かれていたら、
それは説明台詞という、一番面白くないもので、
セルフ解説という一番詰まらないものだ。
それなしで分かるように書くのがシナリオだろ、
と怒られるへたくそなシナリオである。

上等のシナリオは、
理屈のことを一切言わないのに、
なぜその人がそんなことを言うのか、するのかが、
明らかに、如実に、そして感情移入してしまうほど、
分かるものをいう。

逆に解説とは、ストーリーから理屈だけを抜き出す行為だ。
なぜこのときこの人はこうしたのか、などだ。
なるほどこうだったのか、などだ。
分かりやすいシナリオには解説は不要だ。
逆に分かりにくい(つまり下手な)シナリオに、解説が必要になるのである。


プロットは理屈である。
しかし現実の実写の場面で、その理屈を解説しながら生きている人はいない。
その差に、シナリオの難しさがある。
「明らかに分かるように書く」ことの難しさである。

そして何度も書くが、その理由の前提を示せるのは、
はじまって8分までである。
(実際には、設定しながら話を進めるという高度なことをする。
純粋に設定だけしてよいのは、そこまでだ)

説明台詞しか書けない人は、だからシナリオを一文字も書いていない。
posted by おおおかとしひこ at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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