プロットとは理屈である、と書いておきながら、
理屈は書いてはいけないと言う。
さてどういうことだろうか。
この辺りが、脚本表現の根本のひとつかも知れない。
起こった出来事や行動や台詞には、
一定の理屈が通っている。
問題とその解決という大きな理屈の中で、
個人の動機や他人の都合なども含む、
全ての理屈だ。
それが矛盾だったらおかしいシナリオになるし、
どこか足りなければご都合主義シナリオである。
しかしそれは、プロット段階の、骨格の話だ。
脚本表現では、その理屈を書いてはいけない。
その理屈を一文字も書くことなしに、
観客が察するように書くのである。
この男がヒロインが好きだからデートに誘う、
という理屈を、
もじもじしながらも花火大会に誘う、
という行動や文脈だけで、
ははあん、と思わせるように書くのである。
プロットとは理屈だ。
しかし現実の場面では、
その理屈は直接表面化しないものだ。
だからプロットの設計と執筆は、まるで違う行為だ。
理屈で上手く行くことを、
理屈を書かずに、その場の感情や流れで書くのが執筆という行為なのだ。
現実の脚本表現に理屈が書かれていたら、
それは説明台詞という、一番面白くないもので、
セルフ解説という一番詰まらないものだ。
それなしで分かるように書くのがシナリオだろ、
と怒られるへたくそなシナリオである。
上等のシナリオは、
理屈のことを一切言わないのに、
なぜその人がそんなことを言うのか、するのかが、
明らかに、如実に、そして感情移入してしまうほど、
分かるものをいう。
逆に解説とは、ストーリーから理屈だけを抜き出す行為だ。
なぜこのときこの人はこうしたのか、などだ。
なるほどこうだったのか、などだ。
分かりやすいシナリオには解説は不要だ。
逆に分かりにくい(つまり下手な)シナリオに、解説が必要になるのである。
プロットは理屈である。
しかし現実の実写の場面で、その理屈を解説しながら生きている人はいない。
その差に、シナリオの難しさがある。
「明らかに分かるように書く」ことの難しさである。
そして何度も書くが、その理由の前提を示せるのは、
はじまって8分までである。
(実際には、設定しながら話を進めるという高度なことをする。
純粋に設定だけしてよいのは、そこまでだ)
説明台詞しか書けない人は、だからシナリオを一文字も書いていない。
2014年09月19日
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