2014年09月20日

芝居の指示はどこまで書くか

「書かなくても、
その人物の感情が手に取るように分かる」
ものが理想である。

例えば怒りという芝居について。


たまに見る下手なシナリオで、
ト書きに「怒りで拳が震えている」とある。
(これはどこかの教室のテンプレなのか、複数のシナリオで見た)

まずバストショットで拳はうつらない。
上半身のサイズで拳はフレームに入るが、
小刻みに震えさせても、大きさ的に目立たない。
従ってこの指示は、アップで拳を取ることを要求している。

しかし、この演出ださくねえか?

怒っているのを示すのに、わざわざ震える拳をアップにする?
それが唯一ベストの表現か?


例えば、
肩を震わせる、物に当たる、怒った顔(わざと無表情も含む)、
視線を合わせない、声色や大声を出す、殴ったりつかみかかる、
いくらでも直接的な怒る表現はある。
そしてそれを決めるのは俳優であり、監督だ。
その中でもベストの芝居が、
震える拳をアップにすることならそう書くべきだが、
僕が見た例では、他に怒りの表現を知らない、
下手くそな表現に見えた。

そういうシナリオは馬鹿にされる。俳優や監督にだ。
ああ、芝居のことを分かってない人が書いたんだなと。


例えば怒ることを表現するのに、
以下のような方法だってあるはずだ。

 B「まあ、かけたまえ」
   しかしAは座らない。
 A「先日の件ですが」

勧められた椅子を断ることで、相手を拒否する表現だ。
どう考えたってAは怒っているだろう。
まあ、凄く急いでいるパターンもありえるし、
椅子にうんこが乗っているパターンもあるし、
ヘルニアを患っている可能性もあるだろう。

しかし、それまでの文脈、
たとえばBの指示ですんでの所でAが大失敗するところだった、
というようなものがあれば、
この場面では、Aは相当怒っている。
更にそれがAの一世一代の何かに関わるようなものなら、
更に怒っているだろう。

ここまでの文脈でこの場面が来れば、
Aが腕組みをしてようが、怒った口調で話そうが、
バーンと勢いよくドアを開けて入ってこようが、
逆にニコニコしながら落ち着いて話そうが、
拳を震わせようが、
Aは怒っているのだ。
しかも大分怒っているのだ。

この時のAの芝居は、実は何でもよいのだ。
(これがクレショフのモンタージュ実験が示す結果である。
極端には、怒り以外のノイズがなければ何でもいい)

これまでの「話の流れ」で、
観客は、Aは怒ってるんだろうな、さぞ怒ってるんだろうなと思い、
Aの芝居を見て、ほらやっぱり怒ってるよーと感じるだけだ。
(正確には、文脈から怒ってることを推測し、
芝居を見て確認しているだけだ)

これが文脈の面白さ(怖さ)だ。


こういう文脈がないときだけ、
例えばト書きに「しかしAは座らない。怒っているのだ。」
と書くとよい。
例えば映画のトップシーンや、Aの初登場など、
それまでの文脈が分からないときだ。
それにしても、下手な工作をせず、
堂々と怒っていると書くべきだ。誤解を招いては文脈に巻き込めない。
(当然、このあとの怒りの理由が徐々に明かされていくのだろう、
と観客は期待しながら見ることになる)



映画は勿論芝居だが、
モンタージュによって文脈をつくる行為でもある。
(それをしないのがワンカットである)

我々は場面の繋がりで、登場人物の感情をも、
「察するようにさせる」ことが可能だ。


上等なシナリオは、
わざわざ芝居の細かい指示はしない。
そんなもの書かなくとも、感情や思いは、文脈から明らかに分かる。
そしてそれは、最も俳優や監督に、自由度が高く、
腕の発揮のしどころという面白さを与える。

拳を震わせる?そんな下手なシナリオ書いてる場合じゃねえぞ。
posted by おおおかとしひこ at 15:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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