「書かなくても、
その人物の感情が手に取るように分かる」
ものが理想である。
例えば怒りという芝居について。
たまに見る下手なシナリオで、
ト書きに「怒りで拳が震えている」とある。
(これはどこかの教室のテンプレなのか、複数のシナリオで見た)
まずバストショットで拳はうつらない。
上半身のサイズで拳はフレームに入るが、
小刻みに震えさせても、大きさ的に目立たない。
従ってこの指示は、アップで拳を取ることを要求している。
しかし、この演出ださくねえか?
怒っているのを示すのに、わざわざ震える拳をアップにする?
それが唯一ベストの表現か?
例えば、
肩を震わせる、物に当たる、怒った顔(わざと無表情も含む)、
視線を合わせない、声色や大声を出す、殴ったりつかみかかる、
いくらでも直接的な怒る表現はある。
そしてそれを決めるのは俳優であり、監督だ。
その中でもベストの芝居が、
震える拳をアップにすることならそう書くべきだが、
僕が見た例では、他に怒りの表現を知らない、
下手くそな表現に見えた。
そういうシナリオは馬鹿にされる。俳優や監督にだ。
ああ、芝居のことを分かってない人が書いたんだなと。
例えば怒ることを表現するのに、
以下のような方法だってあるはずだ。
B「まあ、かけたまえ」
しかしAは座らない。
A「先日の件ですが」
勧められた椅子を断ることで、相手を拒否する表現だ。
どう考えたってAは怒っているだろう。
まあ、凄く急いでいるパターンもありえるし、
椅子にうんこが乗っているパターンもあるし、
ヘルニアを患っている可能性もあるだろう。
しかし、それまでの文脈、
たとえばBの指示ですんでの所でAが大失敗するところだった、
というようなものがあれば、
この場面では、Aは相当怒っている。
更にそれがAの一世一代の何かに関わるようなものなら、
更に怒っているだろう。
ここまでの文脈でこの場面が来れば、
Aが腕組みをしてようが、怒った口調で話そうが、
バーンと勢いよくドアを開けて入ってこようが、
逆にニコニコしながら落ち着いて話そうが、
拳を震わせようが、
Aは怒っているのだ。
しかも大分怒っているのだ。
この時のAの芝居は、実は何でもよいのだ。
(これがクレショフのモンタージュ実験が示す結果である。
極端には、怒り以外のノイズがなければ何でもいい)
これまでの「話の流れ」で、
観客は、Aは怒ってるんだろうな、さぞ怒ってるんだろうなと思い、
Aの芝居を見て、ほらやっぱり怒ってるよーと感じるだけだ。
(正確には、文脈から怒ってることを推測し、
芝居を見て確認しているだけだ)
これが文脈の面白さ(怖さ)だ。
こういう文脈がないときだけ、
例えばト書きに「しかしAは座らない。怒っているのだ。」
と書くとよい。
例えば映画のトップシーンや、Aの初登場など、
それまでの文脈が分からないときだ。
それにしても、下手な工作をせず、
堂々と怒っていると書くべきだ。誤解を招いては文脈に巻き込めない。
(当然、このあとの怒りの理由が徐々に明かされていくのだろう、
と観客は期待しながら見ることになる)
映画は勿論芝居だが、
モンタージュによって文脈をつくる行為でもある。
(それをしないのがワンカットである)
我々は場面の繋がりで、登場人物の感情をも、
「察するようにさせる」ことが可能だ。
上等なシナリオは、
わざわざ芝居の細かい指示はしない。
そんなもの書かなくとも、感情や思いは、文脈から明らかに分かる。
そしてそれは、最も俳優や監督に、自由度が高く、
腕の発揮のしどころという面白さを与える。
拳を震わせる?そんな下手なシナリオ書いてる場合じゃねえぞ。
2014年09月20日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック