人には、表面的な他人に見せる顔と、
本当の顔がある。
例えば上司と酒を飲むと、この人は本当はこんなことを考えていたんだ、
とか、この人の本当の姿はこっちで、普段は仕事の顔をしてるだけなんだ、
とか分かることがある。
あるいは女の子の、外面と身内向けのギャップに、驚くことがある。
例えば普段話しているときに電話がかかってきて、
偉いかわいい声で電話に出るなどだ。
(年頃の女子だけでなく、幼児やばあさんですら)
なるべく皮をはぎ取った、その人の本当に肉薄しよう。
それが人間を描くということだ。
それは、外向きと本当の姿を対比的に描いただけでは駄目だ。
こういう場合にこの人は表面的な他人行儀になり、
こういう場合にこの人は本性を晒す、
を描いただけでは駄目だ。
それは設定の提示に過ぎず、ドラマではない。
ドラマとは、それが壊れるときに起こる。
あるいはドラマによって壊す、
あるいは壊したことでドラマがはじまる。
ツンデレは設定であってドラマではない。
他人には冷たい仮面的な態度を取る(そして好きな人の前でも)が、
帰り際だけデレる、などの基本設定があるとする。
その人が、「他の人にもデレた」とか、
「好きな人にも終始冷たいままだった」がドラマだ。
そこには、「何かが起こった」があるはずだからだ。
他に好きな人が出来たとか、その人はお父さんだったからとか、
飼い猫が死んだとか、もう好きじゃなくなったとかが、
日常ドラマであることであり、
そのように演じる訓練を受けていた、などがスパイドラマであることであり、
人格改造手術を受けた、などがSFやヒーローものであることだ。
ドラマとは、何かが起こることで、
何かを反応することを言う。
単に挙動がいつもと違うだけでなく、
そのせいで何らかの行動をして、
いつもの定型が崩れていくことを言う。
貞淑な妻が売春組織に入って、淫乱に目覚めていく、
なんてのはポルノの定番だ。
貞淑な顔が外向けで、本性は淫乱だったのだ。
この定番は古くからの型の為、最近メインで使われることはないが、
(フランス映画だったか、「昼顔」という名作がある)
ひとつの人の本性に迫る例である。
普段は適当な人がいざというとき真面目になる。
例えば告白のときや、昔の夢を叶えようとするとき。
普段は誰とでもフランクなのに、ある人の前では緊張する。
例えば嘘をついてるとき、憧れの人の前の時。
そのような、その人の本当の姿に肉薄するドラマを作り出そう。
ツンデレは、それを漫画的にデフォルメした、ひとつの型だ。
淫乱奥さんも、ひとつの型だ。
ぐうたら男がヒーローの時だけ凛々しいのも、ひとつの型だ。
そのような漫画的にデフォルメされていない、
リアルなその人の本当に肉薄するドラマがつくれたとき、
はじめてそれは人間を描いたといえる。
最近のアホクリエイターは、
それを自分でつくらず、
他人へのインタビューでつくろうとする。
それは人間への肉薄の創作ではなく、
ただの取材だ。
リアルの強さに負けるような創作しか出来ないから、
それに頼るのだ。
例えば太秦ライムライトでは、
福本氏の周辺だけがリアルで、
他の登場人物は漫画的なリアリティーしか持ち得ていなかった。
本来全キャラ漫画的だったかも知れないのを、
福本氏の圧倒的なリアリティーが、
それを覆い隠しているのだ。
それを当てにした、セミドキュメントにすぎないし、そういう企画だ。
インザヒーローの陳腐さに比べれば天と地の差だが、
本家チャップリンのライムライトの練り込み方に比べれば、
更に天と地の開きがある。
福本氏でなくても、このリアリティーが出せるホンならば、
それはホンに力がある証拠だ。そしてその力はない。
勿論映画である以上、誰かが演じることになるのは当たり前だが、
誰が演じるとしても一定のリアリティーがあるものでなければならない。
芝居が下手でも、不細工でも、
それでも、「この人間は実在している」というものが。
それは、その人の本当に肉薄することだ。
風魔の例を出すならば、
柳生蘭子が芝居が下手なのに、漫画的デフォルメキャラを脱したのは、
二話の本音を語るところだ。
絵里奈という漫画的キャラを脱したのは、二話の哲学的な語りだ。
姫子が漫画的デフォルメを脱したのは、十話の責任感を示すところだ。
小次郎が漫画的デフォルメを脱したのは、五話のラスト、
「本当に人が死んでいくんだ」から六話の流れである。
(それまでも片鱗としては描いていたけど)
一方壬生は、比較的漫画的デフォルメの人物だった。
人間的に肉薄される部分は「お前が悪いのではない。武器が悪いのだ」
へのリアクションによってである。
悪役である夜叉サイドへの肉薄度と、主役である風魔サイドでは、
人間への肉薄の度合いを変えることを狙っている。
あくまで、主役サイドに肩入れさせる為だ。
(壬生だけが他の漫画的デフォルメキャラに囲まれた唯一の人間だ。
武蔵が人間になるのは、絵里奈の前と、十二話のラストからである。
遅すぎたかもなあという反省はある)
人の本当に肉薄すること。
それはドキュメントによる取材ではなく、
「あなたが人間とはこのようなリアルがあると考えること」である。
それがドラマを創作することだ。
飼い猫が死んだり、夜叉姫と話し合いにいこうと思うなんてのは、
その本当を浮かび上がらせる為の、仕掛け(触媒)に過ぎない。
2014年09月22日
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