2014年09月22日

人に肉薄すること

人には、表面的な他人に見せる顔と、
本当の顔がある。

例えば上司と酒を飲むと、この人は本当はこんなことを考えていたんだ、
とか、この人の本当の姿はこっちで、普段は仕事の顔をしてるだけなんだ、
とか分かることがある。

あるいは女の子の、外面と身内向けのギャップに、驚くことがある。
例えば普段話しているときに電話がかかってきて、
偉いかわいい声で電話に出るなどだ。
(年頃の女子だけでなく、幼児やばあさんですら)

なるべく皮をはぎ取った、その人の本当に肉薄しよう。
それが人間を描くということだ。


それは、外向きと本当の姿を対比的に描いただけでは駄目だ。
こういう場合にこの人は表面的な他人行儀になり、
こういう場合にこの人は本性を晒す、
を描いただけでは駄目だ。

それは設定の提示に過ぎず、ドラマではない。

ドラマとは、それが壊れるときに起こる。
あるいはドラマによって壊す、
あるいは壊したことでドラマがはじまる。


ツンデレは設定であってドラマではない。
他人には冷たい仮面的な態度を取る(そして好きな人の前でも)が、
帰り際だけデレる、などの基本設定があるとする。

その人が、「他の人にもデレた」とか、
「好きな人にも終始冷たいままだった」がドラマだ。

そこには、「何かが起こった」があるはずだからだ。

他に好きな人が出来たとか、その人はお父さんだったからとか、
飼い猫が死んだとか、もう好きじゃなくなったとかが、
日常ドラマであることであり、
そのように演じる訓練を受けていた、などがスパイドラマであることであり、
人格改造手術を受けた、などがSFやヒーローものであることだ。

ドラマとは、何かが起こることで、
何かを反応することを言う。
単に挙動がいつもと違うだけでなく、
そのせいで何らかの行動をして、
いつもの定型が崩れていくことを言う。

貞淑な妻が売春組織に入って、淫乱に目覚めていく、
なんてのはポルノの定番だ。
貞淑な顔が外向けで、本性は淫乱だったのだ。
この定番は古くからの型の為、最近メインで使われることはないが、
(フランス映画だったか、「昼顔」という名作がある)
ひとつの人の本性に迫る例である。

普段は適当な人がいざというとき真面目になる。
例えば告白のときや、昔の夢を叶えようとするとき。
普段は誰とでもフランクなのに、ある人の前では緊張する。
例えば嘘をついてるとき、憧れの人の前の時。

そのような、その人の本当の姿に肉薄するドラマを作り出そう。

ツンデレは、それを漫画的にデフォルメした、ひとつの型だ。
淫乱奥さんも、ひとつの型だ。
ぐうたら男がヒーローの時だけ凛々しいのも、ひとつの型だ。
そのような漫画的にデフォルメされていない、
リアルなその人の本当に肉薄するドラマがつくれたとき、
はじめてそれは人間を描いたといえる。


最近のアホクリエイターは、
それを自分でつくらず、
他人へのインタビューでつくろうとする。
それは人間への肉薄の創作ではなく、
ただの取材だ。
リアルの強さに負けるような創作しか出来ないから、
それに頼るのだ。

例えば太秦ライムライトでは、
福本氏の周辺だけがリアルで、
他の登場人物は漫画的なリアリティーしか持ち得ていなかった。
本来全キャラ漫画的だったかも知れないのを、
福本氏の圧倒的なリアリティーが、
それを覆い隠しているのだ。
それを当てにした、セミドキュメントにすぎないし、そういう企画だ。
インザヒーローの陳腐さに比べれば天と地の差だが、
本家チャップリンのライムライトの練り込み方に比べれば、
更に天と地の開きがある。

福本氏でなくても、このリアリティーが出せるホンならば、
それはホンに力がある証拠だ。そしてその力はない。


勿論映画である以上、誰かが演じることになるのは当たり前だが、
誰が演じるとしても一定のリアリティーがあるものでなければならない。
芝居が下手でも、不細工でも、
それでも、「この人間は実在している」というものが。
それは、その人の本当に肉薄することだ。


風魔の例を出すならば、
柳生蘭子が芝居が下手なのに、漫画的デフォルメキャラを脱したのは、
二話の本音を語るところだ。
絵里奈という漫画的キャラを脱したのは、二話の哲学的な語りだ。
姫子が漫画的デフォルメを脱したのは、十話の責任感を示すところだ。
小次郎が漫画的デフォルメを脱したのは、五話のラスト、
「本当に人が死んでいくんだ」から六話の流れである。
(それまでも片鱗としては描いていたけど)
一方壬生は、比較的漫画的デフォルメの人物だった。
人間的に肉薄される部分は「お前が悪いのではない。武器が悪いのだ」
へのリアクションによってである。
悪役である夜叉サイドへの肉薄度と、主役である風魔サイドでは、
人間への肉薄の度合いを変えることを狙っている。
あくまで、主役サイドに肩入れさせる為だ。
(壬生だけが他の漫画的デフォルメキャラに囲まれた唯一の人間だ。
武蔵が人間になるのは、絵里奈の前と、十二話のラストからである。
遅すぎたかもなあという反省はある)



人の本当に肉薄すること。
それはドキュメントによる取材ではなく、
「あなたが人間とはこのようなリアルがあると考えること」である。
それがドラマを創作することだ。

飼い猫が死んだり、夜叉姫と話し合いにいこうと思うなんてのは、
その本当を浮かび上がらせる為の、仕掛け(触媒)に過ぎない。
posted by おおおかとしひこ at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック