2014年09月23日

現実の時間が凝縮されている

当たり前のことだが、時々わすれること。
現実の30分や15分では、ちっとも話が進まないこと。

会議を二時間やって決まったこと、などを考えてみるとよい。
飲んで話したこと、などを考えてみるとよい。
それだけの時間を使って進んだことは、
映画内の10分で起こることより、遥かに小さい。


映画の10分では会議はすぐ終わって次の工程へ進むし、
映画の10分では男女二人が飲みに行けばセックスぐらい終わるかも知れない。

つまり、現実の時間で起こることより、
映画では遥かに濃縮が効いているということだ。

その濃縮が出来ない、下手な人が増えている気がする。
時間に関するデフォルメが下手というべきか。


映画は実時間でリアルタイムで進める芸術だが、
リアルな会話や出来事をそのまま再現する芸術ではない。

例えば、
楽しかったデートや、楽しかったイベントなどを、
一時停止なしでビデオに撮れば、
どんなに時間を忘れる事だったとしても、
ずっとそのまま再生するのは見ててキツイことに気づくだろう。
要点を編集して、オイシイ所だけを抜き出したくなる筈だ。
つまり、凝縮がそこで起こる筈だ。

喫茶店でのおしゃべりなどを録音し、
文字おこしするエクササイズは以前にオススメした。

或いは、インタビューをビデオに撮り、
文字おこしすることもオススメだ。
やってみると分かるが、
いかに中身に疎密があることか。
密な部分はほんの少しで、あとの殆どはスカスカだ。


雑誌のインタビューなどでは、1ページの分量に、
1時間から2時間テープを回して、ようやく使える分量になる。
因みに人は1秒で6文字読める(映画字幕の基準)から、
60分で2万1600字の情報を目で読める筈だ。
雑誌のページレイアウトによるが、1万字インタビューは相当の分量だろう。
つまり実際のインタビュー記事は数千字以内だ。
2時間回して数千字だとすると、
圧縮率は10倍から100いかないくらいの規模だ。

つまり、リアルタイムの9割から95%ぐらいは、
ゴミなのである。

それはそうだろう。
話には要点というものがあり、いくつかの重要なポイントにまとめる必要がある。
その中心に対して整理されていれば別だが、
話しながら整理がなされるわけだ。
つまり、インタビュアーの仕事とは、
インタビューの最中に要点をなるべく引き出し、
話としてまとめながら進行し、
あとで9割を捨てて上手くまとめることなのだ。


すごく良かったデートや、すごく良かったイベントですら、
映画内では数分のシーンになるだろう。
数時間のそれを数分に凝縮するのは、
良いインタビュアーのような知性が必要なのである。

アホなインタビュアーは、あなたにとって○○とは、
なんてことを聞く。
そんなもの既に分かっている人なら本でも書ける筈だ。
そこまで凝縮されていない人から、話術で探りだし、
この人にとって○○とは△△なのではないか、
と凝縮する知性こそが本当のインタビュアーだ。


我々話の創作者も、そのようにあるべきだ。
現実の混沌を、上手く整理し、上手く凝縮するのだ。

僕は行定勲や石川寛のような演出方法が大嫌いだ。
長回しして、ときにはワンシーンを役者たちに自由にやらせて
二時間回して、
あとでオイシイ所を摘まむ、ドキュメント的な方法論だ。
それは、現実の凝縮を脚本段階でやっていないことの証拠である。
現実の凝縮の仕方、そのフィルターこそが、
作家性だ。
それを役者にやらせてオイシイ所を摘まむのは、
泥棒である。

この方法論でつくられた、「tokyo.sora」や「好きだ、」を見ると良い。
糞である。
現実の凝縮なるものを何もやっていない、単なる現場アルバムだ。
同じくジムジャームッシュの「ストレンジャーザンパラダイス」も虫酸が走る。

「現実のリアルな空気が流れている」ことは、
映画の空気にとってとても大事なことだが、
これらの糞映画は、
「リアルの時間は退屈の方が多い」という事実をすっかり忘れている。
リアルの時間の凝縮を、一切していないのだ。


一方「24」を見てみよう。
リアルタイム時間軸、といいながら、
この話はリアルではない。
劇的物語になるように、凝縮された現実が、
いかにもリアルタイムで起こっているかのように、
綿密に練られているのだ。

カワイイアイドルがきゃいきゃいやっているのを撮って、
オイシイ所を摘まむといいフィルムが出来ると思っている人は、
映画監督にも脚本家にも向いていない。


我々は、リアルの時間をいかに凝縮しながら、
いかに凝縮に気づかれないようにリアルにつくるか、
という仕事をするのである。

例えば、
居酒屋というほぼワンシチュエーンの会話劇「池やんとオレ」
(作品置き場カテゴリ参照)の脚本を見ると良い。
一見リアルな10分程度の会話が、
いかに凝縮されているかに。
この10分で起こることは、
現実の居酒屋でカンパイから起こる10分と比較して、
いかに物語的凝縮がなされているか。

男二人で飲みに行き、最初の30分の会話を録音して文字おこしし、
文字上で比較してみるとよいだろう。
実際真剣な話になるのは、リアルだともっとあとだと思う。
そして仮にその台詞を切り貼りしたとしても、
決して元の物語的凝縮の効いた台詞には勝てないだろう。


我々は現実の濃縮者だ。
現実をきちんと知り、その上で要点にまとめ、
なおかつダイジェストにならないように、
オンタイムで事件が進行しているように錯覚させ、
なおかつリアリティーがなければならない。
それが新しくものを書くということだ。
その凝縮フィルターこそが、作家性だ。

今CMにも映画にもテレビにも、作家性が大きく足りてない気がする。
原作だのみ、芸能人だのみのスター主義でしかない。
posted by おおおかとしひこ at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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