脚本を書いているとき、
前半のセットアップが面白く書け過ぎて、
本来のプロット上の解決では、
完全に解決しきれていないことがある。
それをまず気づくことが大事だ。
作者的にはプロットを実現することに必死だから、
自覚的ではないことが多い。
他人からの指摘で気づくことの方が多いかもしれない。
あなたが想定したようなカタルシスを与えられていないことは、
それが原因かも知れない。
プロット段階で考えていたセットアップより、
実際の執筆のほうが、より細かい記述になるものだ。
或いは微妙な違和感を埋める、
新しい設定をその場でつけ足して進むものだ。
これにより、中盤ではその新しいこと込みで話が進む。
それによってより話が重層的になり、リアルになる。
が、解決の段に至って、何故だかそれが無視されやすくなる。
それはやはり、解決の瞬間こそがプロットの完成の証であり、
執筆当初からそこへ向けて話を進めていた、
ゴールだからだ。
だから、執筆バージョンのストーリーが、
一世代前の解決へ接続されがちなのだ。
このようなことになりやすい、
を知って、第二ターニングポイントを書く前に、
一度これからのクライマックスを想像すると良い。
或いはクライマックスから解決を書いているとき、
計画に沿って書いているから本来正しい筈なのに、
覚えた違和感を覚えておくといい。
或いは、計画通りになって安心した気の緩みを覚えておくといい。
それは、本当の解決を書けなかった証拠だ。
当初の計画とはやや異なるが、このバージョンでのカタルシスを書けた、
と思ったことのほうが正しい。
後者でフィニッシュしたときは、
落ち着いて、プロットのバージョンと現バージョンのどちらが良いかを比較検討すればよい。
元バージョンでのリアリティーのなさは、
実際書いたことで解消されていることが殆どだ。
問題は、新バージョンで書いていながら、
解決だけ(違和感を覚えながら)旧バージョンで、
「出来たことにした」場合である。
その違和感は作者だけが感じるものではない。
観客にも伝わる。
盛り上がりが足りなかった、カタルシスが物足りなかった、
などのような形で。
(例えば、風魔13話の小次郎武蔵対決は、原作通りにやりたいという、
旧バージョンの解決へ接続しようとした。
結果的に、オリジナルな12話の、
武蔵と壬生のツートップに戻った方が盛り上がってしまった反省がある。
まあ、ラストには小次郎と姫子の別れがあるから、いいっちゃいいのだが)
新バージョンでのカタルシスを、
きちんと練り直そう。
第二ターニングポイントから、もう一度練り直そう。
新しい第三幕を考えてもいいし、
アレンジを加えるでも構わない。
結末やラストシーンがそれで変わってしまっても構わない。
逆に変えるつもりで、
もう一度第三幕を練り直そう。
絶対に、そのほうがいいクライマックスに、終わりになる。
あとは、書き終えたあとに、
プロットバージョンと執筆バージョンで、
どちらがいい話になっているかを比較検討し、
いいところは拾い、悪いところは直せばいいだけだ。
それまでが新バージョン、クライマックスだけ旧バージョンが、
一番中途半端だ。
(では風魔13話はどうすれば良かったのか。
絵里奈のことの他に、壬生の友情成分を足すべきだったのかも知れない。
小次郎を、倒すべき仕事の相手だけでなく、友を討ち取った男として、
武蔵に認識させるべきだったろう、壬生の見た「新しい夜叉」について、
武蔵がどう考えていたかを、語っても良かったかも知れない。
「戦いは、どちらかが死んでどちらかが生きることだ。
壬生の見た新しい夜叉は、小次郎、お前に殺されたのだ。
俺は生きなければならん。風魔を殺して」などのような口上が中盤にあれば、
より盛り上がったかもね。
武蔵になるべくアレンジは加えない、という俺ルールを破ってもよかったかもだ。
そのお陰で壬生と陽炎が生き生きしたことのプラスはあるのだが。
だから壬生と陽炎が退場したあとの13話の武蔵は、ピンでしんどいのかも)
2014年09月24日
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