何回も書いているかも知れないが、流れの話。
流れとは、「だから」で接続される一連のこと。
あることがありました。
だから、こうしました。(何故なら、こうしたかったから)
だから、こうなりました。
だから、…
…
最後に、こうなりました。
が流れを書いた、最も簡単な書式だと思う。
目で見る、あったことを、
「だから」の形式で繋いだものが流れだ。
直接だからを介さなくても、
ある場面のあとにある場面があれば、
それは帰結や順接であることが、
時系列であるモンタージュの約束だ。
流れには、ふたつの要素がある。
行動と結果だ。
こうしました、が行動で、
こうなりました、が結果だ。
特に妨害がない限り、行動と結果の形は同じになる。
ところが、障害(自然のもの、人為的なもの)があり、
なかなか思い通りにいかないのが物語である。(コンフリクト)
結果は、だから、行動からすれば歪んだ、
不本意な、不完全なものになる。
だから、人は完全な結末や、
よりよい結末や、妥協した結末を求めて、
次の行動をする。
行動の理由が動機だ。
作品全体で一貫した動機を保つ者もいるし、
ある結果を見て、動機や行動原理を変える者もいる。
見た目から類推される動機が、一見バラバラでも、
真の動機から見たら一貫していることもある。
最初は軽い動機だったのだが、
話が進むにつれて、より根元的な、存在の理由に関する深い動機になることもある。
(大抵主人公がこれだ)
動機と行動と結果の線は、ひとつづきである。
これが途切れてはならない。
一人の人間の行動は、矛盾したり、
「だから」が抜け落ちてはならない。
それだけの行動をするなら、
納得のいく、それなりの理由(事情)がなければならない。
何故やったのか、には、なるほどと思わせる理由がいる。
その納得が、ストーリーの納得である。
つまりこの納得度合いが物足りなければ、いまいちなストーリーだ。
これは感情移入とは関係がない。
納得いかない、まあまあの納得、妥当な納得、心いく納得、
大変感銘を受ける納得などがあるだけだ。
さて、この線は、登場人物と同じ本数がある。
主人公のものをメインストーリーライン(メインプロット)、
その他をサブストーリーライン(サブプロット)という。
お互い関係なく同時進行することもあるし、関係することもある。
どれかの何かが、他の何かに影響する。
どれかの何かを踏まえて、他の何かが変わったりする。
物語が一筋縄、一直線にはいかないのは、
複数の人物が事件に絡むからであり、
複数の人物が目的や事情が異なるからだ。
そしてそれらがひとつに上手くより合わさっていくように、
劇的に組んでいくのが、良くできた物語だ。
だから良くできた物語は、
最後に全員が集合し、全員の結末がひとつの結末で決着する。(大団円)
これら全体を称して、流れというのだと思う。
短期的には、あることを踏まえたあること、
のような前後だけがあるかも知れない。
しかし、ずっと前からのことが現在の場面に流れとして存在することもある。
観客は、それらを体感しているだけだ。
我々脚本家は、全てを設計士として、コントロールするのだ。
役者は、書かれていることから、それを読み取り、
解釈し、表現の基準にし、観客に分かるような形にするのである。
流れとは、だから、理屈のことである。
全て、「説明できる」ことだ。
詰まらない映画は、この流れがあんまり気持ち良くないのだ。
(テンポも含めて)
(一方、「人生は全て説明出来ない」ことを基点にする映画もある。
パトリス・ルコント「髪結いの亭主」はその気分をラストシーンに持ってくる。
フランス映画や日本映画にはこのような、一種の無常感を描くパターンもある。
「こういうときは笑うんや」と締める西原理恵子「ぼくんち」と同じラストかも知れない。
因みに映画版は、阪本順治のワースト作品である)
2014年09月28日
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