2014年09月29日

キャラの面白さは、出落ちに過ぎない

あなたは凄い面白いキャラクターを思いついたとする。
こんな外見で、こんな性格で、
例えばこんなおっちょこちょいとかかっこよさで。
絵が上手ければ、コスチュームデザインが良くできたものや、
ネーミングがいい感じのものが出来るかもだ。

それは、
どんなに良くできていて、滅茶苦茶魅力的でも、
出落ちに過ぎないことを知ろう。


何故なら、物語とは時間軸をもったものであり、
変化を前提とするからだ。

キャラとは、決まった何かであり、固定した何かである。
そのキャラのキャラを発揮する場面が終わったら、
二度目は「また同じか」になってしまう。

だから二度目、三度目には、手を変え品を変える必要がある。
そうやって物語の中でキャラというのは変化し、
固定されたキャラクターというのは本来いてはいけない。
(変化しすぎて飽きてきたら、キャラの死になる。
実際、死んだりする)


つまり、キャラが固定されていればいるほど、
一回しか活躍する場がない。

だから出落ちになる。


るろうに剣心の映画版は、
キャラクター祭りに過ぎない。
ということは、出落ち祭りということだ。

こういう映画は昔からあった。
オールスターの正月映画だ。
スター隠し芸大会のような、スターのキャラを楽しむものであった。
隠し芸大会は出落ち祭りだ。
それが終われば次のスターが順番に出てくるだけで、
最初の演目が次の演目と関係し、ものごとが展開することはない。


実は、風魔の小次郎は、出落ち祭りの漫画である。
(というか、ジャンプのバトル漫画は全て出落ち祭りだ)

実写版では、出落ちにならないように、
小次郎と壬生だけが人間の内面を持ち、その変化を描いていった。
その他のキャラクターは、出落ちだ。
竜魔、蘭子、姫子は、多少変化した。(複数回見せ場があったというべきか)
武蔵、麗羅、陽炎、夜叉姫、霧風、項羽、小龍、劉鵬は、
(よく描けているが)ほぼ出落ちだ。
設定された場面(活躍回)がピークで、
そこから変化を経ていない。
(勿論多少の変化をしてはいる。
しかし原作に沿わなければならないので、
例えば霧風が小次郎とのわだかまりを解消しきる、
などの大きな変化は描けないという無意識の制約はあった。
今思えばやってしまっても良かったのだろう。
ラスト、霧風が「風魔の小次郎」と呼び掛けるだけで、それは表現出来ただろう)


「キャラクターが魅力的」といっても、
様々な要素がある。
置かれた葛藤そのもの、外見、技、典型的癖、
などは全て出落ちだ。
(それでも漫画には絵柄があるから、
絵柄だけでもつ場合もある。実写で言えば、美形がそれだ)


性格や哲学、変化していく内面が魅力的なら、
出落ちにならず、物語に相応しいキャラクターになりえる。
それがある問題に晒されて、どう変化していくかという面白さが、
物語の面白さだ。
そこまで深くは、一本の話できちんと描くには、主人公だけで精一杯だろう。
主人公含め複数人ぐらいが限界だ。
(僕は映画の中では5、6人の説を経験的に言う)

逆に言えば、その他のキャラクターは出落ちで構わない。
そのケレンミが、キャラクターの面白さでもある。


ジャンプのバトル漫画は、出落ち続きの面白さに過ぎない。
だから、映画化が困難なのだ。
似てる役者がいないとか、技をCGで再現できないとかの、
静止画要素が問題ではないのだ。

るろうにを僕が何故問題視しているかと言うと、
誰の内面にも入っていないからだ。
剣心、薫、志々雄の内面やその変化が、
映画での「ストーリー」になる筈だからだ。
そしてそれに関するストーリーは何もなかった。
なかったどころか、破綻の見られる稚拙なものだった。



キャラクターの変化を面白く描こう。
何故変わったのか。
他人にはキャラは変えられない。
変わるとすると、何かの経験を経た後での、
自発的変化である。
それが物語だ。
posted by おおおかとしひこ at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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