VSだろうが、×(クロスオーバー)だろうが、
「対」だろうが同じだ。
これは、業界を殺す。
何故なら、よそのものを買ってきたからだ。
お母さんの手料理で例えよう。
毎日毎日手間隙をかけて全部作るお母さんがいたとしよう。
ところが、ある日突然、
出来合いの惣菜を買ってくることを覚えたとしよう。
お母さんからすれば、
一々手間になる苦労が省け、
しかも美味しく栄養もある。
一体何が問題なのか、ということだ。
問題がひとつだけある。
それは、
「つくることが二度とやりたくないほど、面倒くさくなる」ことだ。
惣菜を買わなくても、いつでも手料理をつくれるかも知れない。
しかし腕が鈍らない保証はないし、
いざつくる時、もう最後まできちんと出来ないかも知れない。
更に問題なのは、
これで育った人が、つくることを学ばず、
買ってくることがご飯をつくること、と誤認してしまうことだ。
何もかも一から作っているなら、
それを横から見たり時々手伝いながら、
学ぶ機会があった。
時には代打ちすることで、経験も積めた。
一から作るには、
全ての要素が全体とどういう関係にあるか知ることだ。
その成功例の蓄積された、目の前の教科書のノウハウを学び、
試しに自分流にやってみたら、やはり伝統のやり方が合理的だと学ぶことだ。
(偶然凄い発明をすることもあっただろう)
そうやって後進が、目の前でつくるのを、ずっと見取り稽古が出来たのである。
門前の小僧習わぬ経を読むことが、自然に出来たのだ。
作ることを共有せず、
買ってくることだけを覚えると、
作ることがブラックボックスになってしまう。
改良したり、よい悪いを事前に見分けられなくなってゆく。
何せ作ったことがないのだ。
一から作る苦労もしたこともないし、
最初も途中も、途中の失敗も見たことがなく、
結果しか見たことがないからだ。
成功失敗は、見た目だけで判断するか、
仕入れ先が確かかどうかで判断するようになり、
いずれ自分の判断もあやしくなって、
仕入れ先のブランドだけでものを見るようになる。
これが自分で作らないことの弊害だ。
VSシリーズは、必ず出落ちになる。
キャラクターありきの企画であり、
そのキャラクターをその作品内で、
キャラクターを変化させられないからだ。
(それは続編の役割であり、キャラクターを借りるだけのVSシリーズでは不可能だ)
僕はアベンジャーズに否定的である。
初回は楽しい。
しかしいずれ、○○参戦しか話題がなくなっていくだろう。
それは出落ちということだ。
そして、それを続ければ続けるほど、
裸一貫から成功する、まっさらな新作をつくる実力が、
業界から失われていくだろう。
惣菜を買い続けるお母さんが、
二度と一から手間暇かけて手料理をつくらなくなってしまうように。
お母さんはもう作りたくないのではない。
もう作れなくなっているかも知れない。
そもそも、後進も育っていない。
例えばなしだが、
今の映画業界の現状と、似たような気がしてしょうがない。
原作を、惣菜のように買ってきて、
出落ちを続けるだけで、
とりあえずご飯は食べられ続けるかも知れないが、
ご飯を作ることが出来なくなるかも知れない。
クロスオーバーや、どこかから何かを買ってくることは、
業界が一から作る力を奪う。
そしてそれは、今奪われつつある。
2014年09月29日
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