るろ剣映画版なんて、キャラクターショーにすぎないだろ、
と批判したが、では、キャラクターショーと物語の違いってなんだろう。
変化というキーワードを置いておいた。
もう少し深く考えてみよう。
キャラクターショーの必要条件を考えよう。
キャラクターショーは、「すでにみんなが知っているキャラクター」のショーだ。
全員がそのキャラを初見、ということはなく、
ほとんどの人がそのキャラを知った上で来場する。
キャラクターショーの中心は、
そのキャラの、キャラたるゆえんの、何かを見せることだ。
必殺技や持ちギャグや、いつもの漫才的なものや、歌や踊りや殺陣や、
それはなんでもよく、そのショーで見せられるものであればよい。
そして、それを「見た」ら、満足する。
それがキャラクターショーである。
単一キャラのショーではない場合がほとんどだから、
「それぞれに見せ場がある」のがよいキャラクターショーだ。
さて。
これは、アイドルのコンサートとほとんど同じ構造だ。
遡れば、歌舞伎と同じ構造だ。
かつては歌舞伎も新作しかしなかったのだろうが、
今の歌舞伎は、キャラクターショーである。
アイドルのコンサートも、歌舞伎も、キャラクターショーも、
あるいはイケメン舞台も、下手したら宝塚も、
既に知っているキャラ(または中の人、または中の人と役の両方)の、
見せ場を見に来るものである。
そして、それぞれにいい見せ場があったことをよく出来たショーだったという。
これは、物語ではない。
物語とは、既に知っているものを確認しに来るのではなく、
初見で楽しむものである。
(くり返し楽しむ場合だとしても、
よく出来た物語は、いつも初見のように楽しむものである)
事件に興味をひかれ、登場人物に感情移入し、
ものごとの解決をもって終わるものだ。
だから、登場人物はそのために冒険をする。
事件ゆえ、危険が迫るからだ。
冒険の結果、世界は変化する。人物も、関係も変化する。
その変化がテーマを暗示する。変化した価値が、テーマのことだ。
そこに、キャラクターショーの要素はなにひとつない。
キャラクターショー用の台本を考えよう。
たとえばヒーローショーには、
誰かが怪人にさらわれ、ヒーローがそれをやっつける、
というストーリーがある。
しかしそれは、上に挙げた物語のレベルではない。
よく知った人の見せ場をつくるための段取りにすぎない。
逆に、物語とは、よく知った人の見せ場をつくることではない。
キャラクターショーの台本と、映画の台本は、だから、
全く違うものである。
るろうにの台本は、ほとんどキャラクターショーの台本のレベルだ。
見せ場を順番につくって、並べているだけだ。
そこに物語はない。
なお、物語には、キャラクターショーは不要だ。
あればショーとして魅力的になるから、
クライマックスなどはどんな映画でもキャラクターショー的な見せ場を用意する。
要は、それだけになってしまって、
物語の根幹が忘れられているだけなのだ。
剣心の冒険とは何か。
彼になんの危険があるのか。
何もなさそうだ。
不殺を貫けば死ぬ確率があがることすら、彼にはなかった。
彼は絶対不敗という「キャラ」だからだ。
志々雄に殺されるかも知れない危険、
人斬りに戻ってしまう危険、
それらは全く描かれない。
彼の内面の不安も一切なかった。
行動の動機はある(志々雄の新国家建設を止める、それは戦乱をもう一度起こさないこと)
ものの、そこに感情移入が全く出来ない、
ただのお題目だった。
戦乱がもう一度起これば何が起こるかも分らないし、
そこに我々は不安や危険を感じることもない。
守るべき薫や弥彦にも感情移入できない。
それはつまり、お題目どおりに行動して、見せ場を順番に巡っていく、
ライドショーと同じである。
るろうに剣心だけではない。
最近の日本映画の大作、すべてにこれが言えそうだ。
映画は、キャラクターショーの客寄せパンダを見るものではない。
それで釣って、物語を見せるものである。
観客の民度も、これでは低下していくのではないか。
2014年09月30日
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