2014年09月30日

キャラクターショーと物語は何が違うのか

るろ剣映画版なんて、キャラクターショーにすぎないだろ、
と批判したが、では、キャラクターショーと物語の違いってなんだろう。

変化というキーワードを置いておいた。
もう少し深く考えてみよう。


キャラクターショーの必要条件を考えよう。

キャラクターショーは、「すでにみんなが知っているキャラクター」のショーだ。
全員がそのキャラを初見、ということはなく、
ほとんどの人がそのキャラを知った上で来場する。

キャラクターショーの中心は、
そのキャラの、キャラたるゆえんの、何かを見せることだ。
必殺技や持ちギャグや、いつもの漫才的なものや、歌や踊りや殺陣や、
それはなんでもよく、そのショーで見せられるものであればよい。

そして、それを「見た」ら、満足する。
それがキャラクターショーである。
単一キャラのショーではない場合がほとんどだから、
「それぞれに見せ場がある」のがよいキャラクターショーだ。


さて。
これは、アイドルのコンサートとほとんど同じ構造だ。
遡れば、歌舞伎と同じ構造だ。

かつては歌舞伎も新作しかしなかったのだろうが、
今の歌舞伎は、キャラクターショーである。

アイドルのコンサートも、歌舞伎も、キャラクターショーも、
あるいはイケメン舞台も、下手したら宝塚も、
既に知っているキャラ(または中の人、または中の人と役の両方)の、
見せ場を見に来るものである。
そして、それぞれにいい見せ場があったことをよく出来たショーだったという。


これは、物語ではない。

物語とは、既に知っているものを確認しに来るのではなく、
初見で楽しむものである。
(くり返し楽しむ場合だとしても、
よく出来た物語は、いつも初見のように楽しむものである)


事件に興味をひかれ、登場人物に感情移入し、
ものごとの解決をもって終わるものだ。
だから、登場人物はそのために冒険をする。
事件ゆえ、危険が迫るからだ。
冒険の結果、世界は変化する。人物も、関係も変化する。
その変化がテーマを暗示する。変化した価値が、テーマのことだ。


そこに、キャラクターショーの要素はなにひとつない。

キャラクターショー用の台本を考えよう。
たとえばヒーローショーには、
誰かが怪人にさらわれ、ヒーローがそれをやっつける、
というストーリーがある。
しかしそれは、上に挙げた物語のレベルではない。

よく知った人の見せ場をつくるための段取りにすぎない。

逆に、物語とは、よく知った人の見せ場をつくることではない。



キャラクターショーの台本と、映画の台本は、だから、
全く違うものである。


るろうにの台本は、ほとんどキャラクターショーの台本のレベルだ。
見せ場を順番につくって、並べているだけだ。
そこに物語はない。

なお、物語には、キャラクターショーは不要だ。
あればショーとして魅力的になるから、
クライマックスなどはどんな映画でもキャラクターショー的な見せ場を用意する。

要は、それだけになってしまって、
物語の根幹が忘れられているだけなのだ。



剣心の冒険とは何か。
彼になんの危険があるのか。
何もなさそうだ。
不殺を貫けば死ぬ確率があがることすら、彼にはなかった。
彼は絶対不敗という「キャラ」だからだ。
志々雄に殺されるかも知れない危険、
人斬りに戻ってしまう危険、
それらは全く描かれない。
彼の内面の不安も一切なかった。
行動の動機はある(志々雄の新国家建設を止める、それは戦乱をもう一度起こさないこと)
ものの、そこに感情移入が全く出来ない、
ただのお題目だった。

戦乱がもう一度起これば何が起こるかも分らないし、
そこに我々は不安や危険を感じることもない。
守るべき薫や弥彦にも感情移入できない。

それはつまり、お題目どおりに行動して、見せ場を順番に巡っていく、
ライドショーと同じである。


るろうに剣心だけではない。
最近の日本映画の大作、すべてにこれが言えそうだ。
映画は、キャラクターショーの客寄せパンダを見るものではない。
それで釣って、物語を見せるものである。
観客の民度も、これでは低下していくのではないか。
posted by おおおかとしひこ at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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