2014年10月01日

才能と技術

才能は、作品の完成度や、もっともらしさには現れない。
なんだか新しいことをやっているとか、
この感情には震える部分があるとか、
全体ではなく部分に現れる。

地形に例えるなら、岬のような感じだ。


神はディテールに宿る。
即ち全体ではなく部分にだ。

ある場面のある台詞が凄くよいとか、
ある展開が神がかっているとか、
じんとくるとか、笑えるとか、凄みがあるとか、
人物像の面白さとか、
新しいパターンだとか、
目のつけどころとか、
そのような、尖ったところが才能だ。

しかし脚本は部分ではなく全体であり、
ディテールだけでなく、
目に見えない(書いていない)文脈であり、
流れの総合である。
これらは、技術だ。
構成や、全体の構造や、編集や、俯瞰することや、
比較する力や、流れを変える上手さや、誘導尋問や、
リアリティーの構築力や、流れそのものの制御は、
全て技術であり、
学び、改良し、理論的に出来、観察し、よりよくすることが出来る。


リライトのとき、
自分の原稿のどの部分が才能がかっているか、
決して見逃さないことだ。

それはどのような才能で、
どうすればそれを大事にしたまま、
技術的に完成度を上げられるかを、考えよう。

リライトのコツは、技術に徹することである。

才能の爆発を見極め、
能力の至っていないところを技術的に補完し、
完成度をあげることである。



今コツコツ書いている例で言うと、
プロットや発想や、起こることに才能を感じた。
しかし、その世界の面白さをまだビジュアル的に見たい所が、
描写しきれていない所があり、
逆に飛ばしていい所があることに気づいた。
内面の心の動きは面白いが、
それを匂わせる描写を足したほうがもっと乗れる、と思った。
あるいは、最初の感情移入にもっと気をつけるべきだと思った。
誰もが共感しやすいことを描写するべきだと思った。
しかも場面描写という静止画ではなく、
エピソードの形で示すべきだと。
(あとは才能の部分の自分に託し、ひとついい小エピソードを思いつくことが出来た)
さらに、ラストのカタルシスを、
最初の感情移入からのカタルシスにするべきだと思った。


判断したり、構成を練ったり、理想型を見るのは技術だ。
(経験も含む)
才能は、部分的な所に宿る。だから不安定だ。
技術は、全体の構造や、一定の完成度に宿る。だから安定だ。
あなたの物語は、
才能のきらめきと、技術の磐石の、両方で裏打ちされている必要がある。



例えば「多分、大丈夫」を例に。
才能の部分は、会話劇の台詞の端々の面白さだ。
テレクラの下りやら、下らない会話のディテールが才能だ。
会話の転換にトイレを使って登場退場をコントロールしたり、
最初一人で飲んでて、あとに遅れて入ってくるところや、
「出会い頭にぶつかって」と伏線を張るところは技術だ。
ちょいちょい伏線のキーワードを会話に入れ込むのも技術だ。
場面転換の幕切れも技術だ。
そもそも幽霊だったと驚かせるのも技術だ。
(幽霊だったのだ、程度の発想は才能とは言わないだろう)

あと、「多分、大丈夫」というタイトルは、技術でなく才能で書いている。
posted by おおおかとしひこ at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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