才能は、作品の完成度や、もっともらしさには現れない。
なんだか新しいことをやっているとか、
この感情には震える部分があるとか、
全体ではなく部分に現れる。
地形に例えるなら、岬のような感じだ。
神はディテールに宿る。
即ち全体ではなく部分にだ。
ある場面のある台詞が凄くよいとか、
ある展開が神がかっているとか、
じんとくるとか、笑えるとか、凄みがあるとか、
人物像の面白さとか、
新しいパターンだとか、
目のつけどころとか、
そのような、尖ったところが才能だ。
しかし脚本は部分ではなく全体であり、
ディテールだけでなく、
目に見えない(書いていない)文脈であり、
流れの総合である。
これらは、技術だ。
構成や、全体の構造や、編集や、俯瞰することや、
比較する力や、流れを変える上手さや、誘導尋問や、
リアリティーの構築力や、流れそのものの制御は、
全て技術であり、
学び、改良し、理論的に出来、観察し、よりよくすることが出来る。
リライトのとき、
自分の原稿のどの部分が才能がかっているか、
決して見逃さないことだ。
それはどのような才能で、
どうすればそれを大事にしたまま、
技術的に完成度を上げられるかを、考えよう。
リライトのコツは、技術に徹することである。
才能の爆発を見極め、
能力の至っていないところを技術的に補完し、
完成度をあげることである。
今コツコツ書いている例で言うと、
プロットや発想や、起こることに才能を感じた。
しかし、その世界の面白さをまだビジュアル的に見たい所が、
描写しきれていない所があり、
逆に飛ばしていい所があることに気づいた。
内面の心の動きは面白いが、
それを匂わせる描写を足したほうがもっと乗れる、と思った。
あるいは、最初の感情移入にもっと気をつけるべきだと思った。
誰もが共感しやすいことを描写するべきだと思った。
しかも場面描写という静止画ではなく、
エピソードの形で示すべきだと。
(あとは才能の部分の自分に託し、ひとついい小エピソードを思いつくことが出来た)
さらに、ラストのカタルシスを、
最初の感情移入からのカタルシスにするべきだと思った。
判断したり、構成を練ったり、理想型を見るのは技術だ。
(経験も含む)
才能は、部分的な所に宿る。だから不安定だ。
技術は、全体の構造や、一定の完成度に宿る。だから安定だ。
あなたの物語は、
才能のきらめきと、技術の磐石の、両方で裏打ちされている必要がある。
例えば「多分、大丈夫」を例に。
才能の部分は、会話劇の台詞の端々の面白さだ。
テレクラの下りやら、下らない会話のディテールが才能だ。
会話の転換にトイレを使って登場退場をコントロールしたり、
最初一人で飲んでて、あとに遅れて入ってくるところや、
「出会い頭にぶつかって」と伏線を張るところは技術だ。
ちょいちょい伏線のキーワードを会話に入れ込むのも技術だ。
場面転換の幕切れも技術だ。
そもそも幽霊だったと驚かせるのも技術だ。
(幽霊だったのだ、程度の発想は才能とは言わないだろう)
あと、「多分、大丈夫」というタイトルは、技術でなく才能で書いている。
2014年10月01日
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