2014年10月05日

四大詰まらないストーリーライン

ある職場とか世界とかを舞台にしたとき、
単なる恋愛、
単なる先輩後輩の成長、
単なる東京(またはニューヨークや海外留学)へ行く、
単なる病気、
のパターン。


例えばオフィスドラマや、何かの職業を舞台にしたものでは、
よく見られるストーリーラインだ。
人生によくあることだから、
何かドラマを起こさなければ、という思いから、
ついつい安易なライターが書いてしまうストーリーラインだ。

問題は、それが入っているからドラマになっている、
と思い込む作り手側にある。
毎回毎回、色んな舞台で同じことを見ている我々は、
またそれかい、と飽き飽きする。

単なる、というところがポイントだ。
それぞれの焦点が、単なる恋愛、先輩後輩、出ていく話、病気になるから駄目なのだ。
もっと深く、その舞台に食い込んでいればよいのだ。


「インザヒーロー」「太秦ライムライト」は、
見事にこの愚を犯している。
スタントマンまたはスーツアクター、切られ役ならではの、
恋愛や成長や、凄い場所へいくや病気が、
存在しないのだ。

その仕事を理解することはどういうことか、
その仕事をする人は何を誇りにし、どんなコンプレックスを持つか、
その仕事の繊細なところと大雑把なところ、
その仕事を親しい人にどう説明し、自分のなかでどう納得しているか、
同じ仕事仲間との関係、
その仕事にどうやってついて、どうやって終わるか、
脱落した人との関係、辞めた先輩、
不安。
学ぶことや、教えられること。

その職業の人以上にその職業を描くことが、
その職業に入り込むことだ。
その職業ならではの深いところを描いた上で、
それでも人間なんだなあと我々との共通点を描くのだ。

先の二本は、どちらも表面的な、外から見たらこうだろうな、
という「職業の毎日」を描いただけで、
その深みに入っていない。
入っていないから、ドラマをそこから導き出すことが出来なくて、
薄っぺらいドラマのような、
単なる恋愛や先輩後輩や、東京やハリウッドへいくことや、
単なる病気を描いている。

太秦ライムライトのヒロインの殺陣への思いは薄っぺらい。
憧れだったまではいいとして、剣道部に入ったとか、
居合道習ったとか、そのせいで男子から変な目で見られたとか、
彼氏が出来なかったから一回やめたとか、
そういうリアルがなかった。

インザヒーローのハリウッド観はとても薄っぺらい。
どうして渡辺謙や真田広之がハリウッドへ行ったのか、
日本の現場と何がどう違うのかは、何も取材されていなく、
我々はイメージが困難だ。子供が考える「外国」でしかない。

地に足がつくというか、
その世界にリアルにいることで立ち上がって来る物語、
がないのだ。

だから借り物のストーリーラインを植えてしまうのだろう。


もしあなたが職業ものを書くなら、
是非その取材をたっぷりして、
その世界ならではのことに、僕らをへえっと唸らせて欲しい。
何年も働いた人ならではの、あるいはその仕事のまま引退した人の話を聞いてみたい。
そしてその先にある、とはいえ人間なんだなあ、と唸らせて欲しい。
それが作家の目だと思う。
我々は、その人間の見方に、感服するのだ。


なんでもかんでもドラマ要素を足そうとすると、
安易な借り物のストーリーラインを持ってくる。

戦争ものに、女の観客を連れてくるために恋愛要素を入れるなどだ。
風魔の10話だって、最初は恋愛要素イラネと、
予告時点では反発が大きかった。
あそこまで深く登場人物の内面に入り込んだ、
あの話ならではの恋愛劇だから、
単なる恋愛要素にならなかったのである。


深く深く、その人の内面に入ろう。
その人がどういう世界で生きてきて、どういう世界を生きていこうとしているかを、
取材して創作しよう。
単なる借り物のストーリーラインを持ってくるのは、
ただのメッキだ。すぐはげる。
posted by おおおかとしひこ at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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