2014年10月05日

創作で救われた人

例えば学芸会で何かを演じ、
人生ではじめて認められた経験をした人はいるだろう。
はじめて漫画や小説を書き、友達や先生に良かったと言われ、
人生ではじめて認められた経験をした人もいるだろう。

創作の原点は、そういうものだ。
楽しんでやって認められた経験が、
大抵の創作者の最初のほうの経験にあると思う。


いわば、僕らは創作に救われたのだ。
それをすることがなかったら、一生認められることのなかった、
大したことない人生で、
唯一それが大きく誉められたのだ。

だから、
それが原体験や奥底にある人は、
「誰かに認められること」が創作の動機になってしまう。

何故どや顔が出てしまうのか、の答えがこれだ。

誉められたいから、ここで誉めて、
という顔をする子供と同じなのだ。


アマチュアの間ならそれも構わない。
他の凡人に比べてなにがしかの才能がある、
凄いね、というアマチュア時代を過ごした人は多いだろう。
あるいは、認められなかった自分を、
いつか認められる為に創作活動を続ける人もいるはずだ。

しかし、プロとは、そういうことではないのだ。

面白いか面白くないか、でしかない。
認めるとか、凄いねではない。


観客の立場で考えよう。
松本人志はどうだろう。
昔は面白かったが、今あまり面白くない、
というのが妥当な主流評価ではないだろうか。
松本は昔凄かった、認められていた。
それはつまり、松本は面白かった、ということだ。
しかも毎回毎回面白かったのだ。

それが面白くなくなってきたから、
かつて凄かった人、かつて認められていた人、になっているだけだ。

あなたはプロとして、
そのような批評を受けるに過ぎない。

(面白い、というのはギャグだけに限らない言葉として考えるとしよう)
あなた自身が創作で救われるとか、
認められなかったあなたが認められるとは、
一切関係がない。
プロとは、面白いか面白くないかで批評される
(極めてプリミティブに、判断される)だけなのだ。

かつての原点や、アマチュア時代は、
他の下手な人に混じってやっていたから、
あなたは特別目だっただけである。
比較対象は前後二年程度の同期に過ぎない。

プロ野球選手が殆ど甲子園経験者であるのと同様、
プロの世界は、面白いやつらがごろごろしている。
同期も新人もない。
つくるものが面白いか、面白くないかだ。
認めてとか、誉めて、なんてのは、
とうに置いてきた人達の中であなたは闘うのだ。
(プロになって分かることは、面白くない人でもプロであれるということだ。
安いとか早いだけで、クオリティを問われないプロの世界も、たくさんある。
キャストのごり押し、詰まらないドラマや映画やCMは、
そのような面白くない人が今低予算でつくっている)

自分のつくったものが認められ、誉められ、凄いと言われるのは、
唯一、作品が面白かったときだけなのだ。

そして、そのようにどや顔するものは、決して面白くない。


認めてとか、誉めてとか、凄いと言って、は、
別のことで達成しよう。例えば恋人に甘えよう。
自己実現を創作の中でしようとすると、
キャシャーンやインザヒーローみたいになり、
どや顔を晒し、メアリースーを呼ぶことになる。

あなたは、面白いか面白くないかで作品を書くべきであり、
それ以外の基準など、物語にはない。
あなたは、無限にその作品を面白くする義務がある。
これ以上面白くならないギリギリまでやって、
はじめて完成である。

あなたが創作に救われたことは、単なる偶然または、
運命に過ぎない。

プロなら、そんなことは関係なく、
面白いか面白くないかで、ギリギリまでやること。
posted by おおおかとしひこ at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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