2014年10月16日

正面性

改めてこれを言われると、当たり前だと思う。
「(観客に対し)正面を向いている人が重要人物」ということを、
映像やパフォーマンスの正面性という。
舞台で観客にケツを向ける人がいないのは当たり前だ。

映像の場合は、結構難しい。


簡単な例から。
男が女に「好きだ」と告白する場面。

最も重要な男の台詞のとき、男は普通アップになる。
これは正面性の原則から明らかだ。
最も重要なものは彼の告白だからだ。

彼女のリアクションも大事だ。だから彼女のアップが次に来る。
映像とは、カットを変えて、正面に来るように大事なものを、
それぞれ見せていくものだ。

ちなみに、逆を考えよう。
「君が好きだ」と言うとき、彼のアップではなく、
言われた側の彼女のアップを使う。(画面外から声がする。これをオフ台詞という)
次に、彼女のリアクションを待つ彼のアップを繋いでみよう。

これは、告白が既にわかっていることで、
告白イベントよりも彼女のリアクションが最も大事な文脈の時に使われる繋ぎだ。

どちらにせよ、
今最も大事なものが、正面(アップ)を向くことは同じである。

告白にせよ、リアクションにせよ、
その大事なものが、横顔だったりバックショットだと言うことはない。

ちなみに独り言は、横顔やバックショットが多い。
誰に言うともでもない、空間に呟くものだからだろう。

いずれにせよ、
大事なものが観客に対し正面を向く、という原則は同じだ。
(独り言は、絵が重要でない。
だからこの絵の中には重要なものがない、という絵を撮るのだろう)
というより、正面を向いているものが今重要なものだ、
という解釈になるのである。


さて、本題。

二人なら簡単だ。
2キャメで同時に回して編集で繋ごうが、
シングルキャメラで同じ芝居を2回撮って編集で繋ごうが、
カット割自体は簡単である。


ところが、ちょっと複雑な人物配置になると、
途端に正面性を保つのが難しいのだ。

例えば、野球を考えよう。

リアルな人物配置では、どこから撮っても必ずケツを向けた人が出る。
というか、人はばらばらな方向を向いているのが自然であり、
全員が同じ方向を見ていることこそ不自然だ。

逆に舞台ならその不自然は許される。
宝塚の大階段は、全員が観客に正面を向けるための工夫だ。
仮に野球の試合が舞台化するとしたら、
全員が正面を向いている、嘘配置でも誰も文句を言わない。
尻を向けることより正面性が大事だからだ。
(テニミュや弱虫ペダルの舞台では、全員が正面を向いて、
向かい合っている体の芝居、レース中の体の芝居をする)

ところが映像では不自然になる。
全員が同じ方向を向くことはない。

だから、カメラで色々な角度から撮らない限り、
正面性をそれぞれピックアップすることはできない。


全員を仮にアップで撮れるとしよう。
また、ツーショットや何人かも絵の中に入れられるとしよう。

試合展開の重要な文脈を追うとき、いつ誰をアップにするか?
が問題である。

ピッチャー対バッターの対決なのか、
ピッチャーとキャッチャーのサインなのか、
二塁ランナーのエンドランなのか、
それを警戒したサードの前進守備か、
はたまた外野の守備位置なのか、
それともネクストバッターに控える四番の調子なのか、
ベンチの駆け引きなのか、
あるいは観客席にいるライバルなのか、
実況放送なのか。

誰のアップをどのように繋ぐと、
試合の文脈の重要な部分を表現できるだろうか。
正確に言うと、どんな展開でも、重要なアップの連続で繋いで表現できるか。
そのやり方に法則はあるだろうか。

最も馬鹿なやり方は、
全員のアップを一試合時間押さえておいて、編集で繋ぐやり方だ。
ここにこれを挟むと文脈に厚みが増す、などを編集室で発見できたりする。

これは、ハリウッドで使われるマルチキャメラの方法論だ。
しかし、使われるアップ以外を全て捨てることになる、
金にものを言わせたやり方である。
(使い捨ての奴隷制を前提とした、資本主義、帝国主義的やり方だ)


一方日本映画のやり方は、
極限まで撮影するカット数を減らすことだ。
引きワンカットで済むならワンカットで終わらせるべきだ。
(日本映画のカットの長さは、これに起因する。
ミニマリズムと貧乏の間にいる)

ワンカット内で、状況と重要な正面性を両立させようとする。
だから日本映画のアップは、ハリウッドではミドルショットぐらいのサイズが多い。
逆に言うと、日本映画はワンカットあたりの情報量が多く、
なおかつ、分かりやすいように整理されている。

このため、日本映画では、人物の配置、立ち位置が重要である。

上座や下座など、場所で人を表現する文化も手伝って、
カメラと空間の立ち位置を使って、文脈を示しやすくする、
というやり方が日本映画だ。
容易に想像される通り、立ち位置が決まっている野球や部屋の中は簡単だ。
しかしダイナミックに立ち位置が変わるサッカーにこのやり方は使えなくなる。
静的状況には使えるが、動的状況には使いにくいのだ。

これが、日本映画が静的でダイナミズムがない理由だ。
日本映画は、貧乏で、ミニマリズムになるように工夫する文化で、
立ち位置で人を語れる文化を持つのだ。
だから正面性はこのときあまり重視されない。
横顔でもバックショットでも、立ち位置で重要性を示すからである。
時代劇では特に顕著だ。
その伝統が残る、部屋の中の上座下座で、
その文脈の支配者が分かるというものだ。



いちいちアップを撮らず、立ち位置で表現する方法。
すべてのアップを押さえ、正面性を順守する方法。
前者は状況重視、後者は感情移入重視の結果をもたらす。

どちらを優先していくかは、主に監督が決める。
正確に言うと、文脈が決める。
何が今重要かが決める。

つまり、脚本上で、今重要な文脈は何かが、
明らかになっていないと意味がない。
今何を正面とするか、が。

告白の場面に戻れば、
 男「好きだ」
 女「…(答えを考える)」
の二行の脚本でも、
男の告白の成功が今焦点なのか、女の答えの方が焦点なのか、
二人がここにいること自体が焦点なのか、
ここまでの文脈で明らかになるように書いてなければ、
今どこをアップにするべきかの答えが出ない。

野球のような複雑な配置でも、
どこが文脈の重要点かが、明らかになっていれば、
それは流れるようなアップの連続になるはずだ。

そうではない、何が今重要であるかが分からない、
もやっとした脚本では、どうやっても撮れないのである。



今、何が最も重要か。
それは話題の焦点のような、流れを持っている。
それを文脈から明らかなものを書けるかどうかが、脚本家の腕である。

正面だから重要なのではない。
重要だから、正面を向けるのである。
なぜ正面かが、おはなしである。
posted by おおおかとしひこ at 11:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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