2014年10月13日

面白さには二種類ある

これこれが面白い、という人の感想は、
批評ではない。あくまで反応としての感想だ。

面白い、というときに、何が面白いのかを分析することは大事だ。
ガワと中身についてこれまで書いてきたが、
ビジュアルデザインや音楽などのない、
脚本上においても、二種類の面白さがある。



それは、単発の面白さと、繋がった面白さではないかと思う。

たとえば笑いは単発だ。
僕は笑いの才能がある程度あると思う。
なのでついつい笑いを各所に忍び込ませる。
笑うことこそ人生をポジティブにし、
笑うことこそ人生の悲哀を茶化す力があると思っている。
が、あくまで笑いは単発だ。
持続はしない。
(例えば風魔1話のドップラー効果、なでしこ。
風魔6話の崖落ちやシンクロの下の闘いなどは、僕のセンスである)
それが物凄く面白いビジュアル的象徴になることもあるが、
あくまで単発である。

あるいは感情の爆発、スリル、猟奇、恐怖なども、
持続しない(ずっと続くことはない)ため、単発である。

これらの単発を、
単に並べて数珠繋ぎにしても、
映画にはならない。
(いけちゃんをやるまで、僕はある程度なんとかなると勘違いしていたところはある。
10分くらいまでは単発数珠繋ぎでも持つからだ)

それは刺激集に過ぎず、
世界の衝撃映像と構造は同じだ。
ただ、小から大に並べて、
次々目先を変えていけば飽きることはないかも知れない。
しかしそれは所詮刺激のスプレッドを順に見るだけの、
刺激巡りであり、
進展する物語ではない。

ただ、この単発が、物凄く面白ければある程度持つ。
僕は、風魔前半戦(壬生の裏切り)までを、
この単発だけでなんとか持たせた。

単発はある種の才能が必要だ。
誰よりも鋭い感性や、オリジナリティーや、
同時代の一歩先をゆくことや、
絵を描く才能や、音を構成する才能や、何かの才能がないと、
単発で人目を惹き付けることは難しい。
才能だから、教えることも出来ないし、新しく作り出す理論もない。
(見た目をパクることは可能だ。
あるものがあるものをパクっていることを見分けることは重要だ)

時間軸を持っていても10分程度以内、
時間軸のないものは、
この単発の才能だけで、プロになれると思うし、
立派な芸術家になれると思う。

映画は総合芸術であるから、
これらの才能がないと、映画にはならない。
まず絶対的に必要かも知れない。

脚本上に必要かどうかはまた別の話だ。
脚本にそれがなくとも、
センスのある監督は、そのような単発の面白いディテールを足すものだ。
監督独自のタッチをつける、ともいう。
(分かりやすい例では、岩井俊二の映像世界である。
ストーリー上とは関係ない面白さが、彼の面白さだ)


ところが、映画には、ストーリーというものがある。
ストーリーが面白くないと、
どんな単発の面白さを並べても、やっぱり面白くないのだ。
(例:マトリックスは面白かったのに、ビジュアルや音響をパワーアップしたはずの、
リローデッド、レボリューションズは、全く面白くなかった。
るろうに剣心は、アクションは滅茶苦茶面白いのに、話は退屈だ。
トランスフォーマーも、CGはすんごいのに、やっぱり退屈だ)

ストーリーの面白さは、繋がりの面白さである。
あることの直後にあることが起こって(または起こして)、
次にどうなるのかという面白さである。
あることとあることが実は関係があった、という面白さである。
こういくだろうと予測してたら、意外な方向に話がいく面白さである。
全体的にこうだろうと思っていたら、まるで違うのだとどんでん返しされる面白さである。

これはワンビジュアルや、短い言葉では上手く表現の出来ない面白さだ。
流れとか、勢いとか、動きとか、グルーヴとか、体感的、
と僕が表現する、言葉や形式でとらえられない面白さのことである。

何故貞子は怖いのか?
を考えて見るとよい。
長い髪で顔が見えなくて、テレビから出てきたり井戸をはったりするから怖いのか?
そうではない。
キャラの見た目や設定で怖いのではない。
キャラで怖いのだとしたら、
コスプレでテレビから出てくるだけでうぎゃーとなるはずだ。
それはそこそこ不気味だ(つまり単発の怖さとしてもなかなかの出来)が、
貞子が怖いのは、ストーリーとしてなのだ。
生い立ちから死ぬまでの悲劇と、呪いのビデオで拡散しているのが怖いのだ。
呪いのビデオ自体も単発として怖い。
しかしそれが貞子に繋がり、貞子の生い立ちが明かされ、
そこに主人公の人生が関わっていくことが、怖いのだ。
「リング」は、「貞子は怖い」ということを面白さの根本に据える、
ホラーの傑作である。
単発の面白さ(怖さ)、繋がりの面白さ(怖さ)、
双方が車の両輪のように、面白さを回している。


ストーリーに必要なことは、
今までの脚本論に色々と書いてきたし、これからも書くと思う。

ちなみに、ストーリーだけ面白くて、
単発の面白さがないものは、
地味な玄人好みのものになる。
古典映画や小説や演劇や歌舞伎やオペラなどの、
古いジャンルのものは、
繋がりの面白さはすごいが、
現代人にとって単発的面白さが物足りないかも知れない。
(だから腰を据えてゆっくり観賞しなければならない)

僕は「多分、大丈夫」はなかなかのストーリーの面白さだと思っているが、
単発的面白さは、居酒屋トークの面白さとか、キャラの面白さぐらいしかない、
シンプルな演劇の面白さの範囲ぐらいだろう、
つまり映像としては、物足りないと思っている。
(逆にそれらを捨てて、じっくりと繋がりの面白さをやろうと思った、
実験的作品でもある)



どうしたら面白くなるかは、理論的に語れない。
何故なら、面白いことは、新しいことだからだ。

新しい単発の面白さを発明し、
新しい繋がりの面白さを発明し、
双方を上手く両輪のように使うことが、
真の新しい面白さを生むだろう。


脚本は、単発と繋がりの面白さを、
同時に操る芸術だ。
あなたは、自分の書いているものの、
どれが単発でどれが繋がりかを、把握しておこう。
繋がりは構成を変えられないが、
単発は場面を変えられる。
別の繋がりのところに単発を移植したりすることも出来る。
単発ありきの構成なのか、
繋がりありきの構成なのかを、
リライト時はじっくり分析するべきだ。

調子よく書けて出来のいいところは、殆どが単発的に面白いところである確率が高い。
これが構成を再構成するときに、目眩ましになる。
この出来のいい場面を変更するのが勿体ない、と。
しかし、繋がりが面白くないと、
結局は面白くない、という原則を思いだし、
単発的に面白い場面には移動したり消えてもらおう。
またどこかに単発的面白さを足せばいい。
(あるいは監督が足すだろう)


脚本の面白さには、二種類ある。
単発的な面白さと、繋がりの面白さだ。
人が面白いと飛びつきやすいのは、前者だ。
そして最後まで見たときに本当に面白かったかどうかは、
後者で決まる。
あなたは、その両方を書き、使い分けられなければならない。
(最低でも後者が出来ていれば、監督やスタッフが足してくれる)
posted by おおおかとしひこ at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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