2014年10月16日

バトルものは、実写映画にならない

と、試しに断言してみよう。

それは、現実の実写がベースだからだ。
バトルの時間をたとえば20分だとしたら、
のこり23時間40分の現実が、現実空間にあるからだ。


例えばプロレスラーを考えよう。
年間何百試合する彼らも、
殆どの現実時間は試合外である。
だからプロレスラーを描くということは、
試合外の人生をも描くことだ。

バトルものは、大抵漫画かゲームである。
バトルそのものを、唯一楽しみに出来るように、
試合外のことを、なるべくデフォルメして減らしている。
バトルにリアリティーを入れ込むような最低限の設定だけしておいて、
それは背景に過ぎず9割はバトルだ。

例えばストリートファイターの映画化を考えよう。
このバトルゲームの1割部分、
つまりリュウやケンの設定は、
残り23時間40分を描くには、あまりに貧弱である。
だから、ストリートファイターはそのままでは映画にならない。
プロレスラーの試合外に当たる、23時間40分の部分が映画の殆どになるからだ。


映画「レスラー」と「ストリートファイター」
(アメリカのガイル主役版、日本アニメ版で篠原凉子の「愛しさと切なさと」が主題歌のもの)
を比較してみよう。

「レスラー」では、ミッキー・ローク演じる彼の人生がメインだった。
娘とのことや、好きな女のことがメインだった。
彼の試合は仕事場にいくことと同レベルで語られた。
試合が彼の自己表現になるのは、クライマックスのみだ。
それも、プロレスが彼にとってどんな意味だったかを、
試合で表現するという、極めて映画的表現の佳作だった。

一方、「ストリートファイター」の映画版は、
ストーリーなんて殆どなく、かといってバトルもいまいちな、
中途半端な映画だった。
ストーリーはバトルの場面の繋ぎに過ぎず、ストーリー部分は人生を描かず、
単なる退屈場面だ。
「マッハ」やジャッキーチェンの一連と比較しよう。
これらはバトル自体が凄い、ストーリーなんて後付けで構わないレベルだ。
カンフーそのもののアクションという生身の売りに特化すると、
それはアクション映画というジャンルになる。
(プロジェクトA、スパルタンX、香港国際警察などの黄金期では、
新しい観光要素でストーリーを持たせていた)

ところが、ストリートファイターは、アクション映画にもなっていない。
バトルものは、アクション映画にするのが正しい。
生身のアクションでそのバトルにならないのなら(たとえばCG)、
それはアクション映画ではない。
CGでバトル部分を再現して、アクション場面の代わりになる、
と思うのは浅はかだ。
やっぱりCGアクションは嘘だからだ。
(ハリウッド映画ではそれを知っているから、
必ずカーチェイスや銃撃戦や肉弾アクションを入れてくる)

だから、生身のアクションでバトルものにならないのは、
映画にならない。

バトルものに近いもので、スポーツものがある。
しかしスポーツの動きは、アクション映画のアクションほど、
危険やハラハラを伴わない。
レスラーの試合と人生の関係と同じだ。

そうすると、やはり試合よりも試合外の人生の面白さがメインになってくる。



つまり、映画では、人生というバトルをするのだ。


バトルものでは、
人生というバトルはしない。
バトルがモチーフだからだ。
バトルの時間だけで生きている。
だから映画にならない。
映画とは、人生のバトルものだから。


実写版風魔の小次郎の成功の要因は、
バトルもの原作を、バトルはそのままに再現し、
その成立に至る過程をメインに描いたところだ。
つまり、人生というバトルを描き、
バトルものの部分はその何かを決する手段として描くのである。

姫子の苦悩と小次郎の片思いというマンガからはじめて、
忍者一族同士の闘いの文脈に広げ、
「リアルな死を経験する」ことで成長のきっかけとし、
長兄が倒れることで自分に出番が回ってくることを描き、
闘う意味について、姫子を思うことへと結実し、
友の死と修行の完成、
という大きな小次郎の流れの中に、
各キャラクターの人生、
武藏の闘う理由、壬生の転落と再生、陽炎の陰謀を、
サブプロットとして織り込んでいる。

これらは、バトルものにはなかった、
人生というバトルだ。(最初の姫子への恋と武藏のみ原作準拠)


ウルトラマンが(予算の関係で)ウルトラマンと怪獣のバトルを
3分に限定したせいで、残り27分は、
人生というバトルをしなければならなくなった。
そこが名作足るドラマを生むスペースになった。

もし30分ほとんど、
ウルトラマンvsバルタン星人とか、ジャミラとかやってたら、
それはちっとも名作じゃなかっただろう。
故郷の星が絶滅してしまった悲劇の一族の侵略劇、
ソ連(当時)の宇宙飛行士が折角助かったのに怪獣となった悲劇がなく、
プロレスを30分したって無駄だ。
(そういうバトルだけを編集したウルトラファイトという再編集番組があったが、
それはちっとも歴史に残っていない)


にも関わらず、
CGの発達のせいなのか、
全編バトルだけをやればいいのではないか、
という、実写を分かっていないやつが多すぎる。

見せ場が何故見せ場なのか、その人はきっと説明できない。

お金がかかった興奮する映像だから見せ場なのだ、
と答えるだろう。
それは正解の半分でしかない。
正解は、これまでの人生バトルというストーリーの決着がつく、
最も大事な場面だから、が残り半分だ。


バトルは、映画にならない。
何故なら映画とは、人生という闘いを描くものだからだ。

新奇なバトルを思いついて、
それが新企画だと思い込んでいる人は、
映画ではなく、バトル漫画をかくほうがいいと思う。


るろうに剣心はバトル漫画だ。
実写化したって、アクションは凄いけど、と言われるだけだ。
さて、地獄先生ぬ〜べ〜はどうだろう。
バトル以外が何をやってるかで、その作品の価値は決まる。
(バトルもの全盛のジャンプのなかで、
珍しく人生というストーリーを描いた原作である。
まあ、多分見ないけど)
posted by おおおかとしひこ at 01:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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