2014年10月17日

台詞が上手くなるには

実は東京近郊の人は、それ以外の全国に住む人の苦労を知らない。
それは、「標準語で」台詞を書くことだ。

東京近郊以外の、9000万人ぐらいにとっては、
「標準語の会話はリアルじゃない」のだ。
リアルなのは地の言葉の会話であり、
標準語の会話はテレビや映画からしか聞くことができない。

標準語のリアルな会話なんて書ける訳がない。
だって自分の中でリアルじゃないんだもの。


台詞を書くのが苦手な人は、
標準語ではなく、地元の言葉で一端台詞を書いてみてはどうだろう。
今までよそよそしく、嘘臭かった言葉や言い回しに、
急に血が通い、泥臭く、人間臭くなるのではないだろうか。

そうだとすると、あなたは台詞を書くのが下手なのではなく、
標準語台詞を書くのが下手なだけな可能性がある。
(地の言葉でも下手なら、出直し!)

上京組は、皆言葉で苦労する。
僕は大阪の出だから、関西弁と標準語という、
おそらく一番遠いふたつの言語のギャップを越えなければならなかった。
(北海道は標準語に近いので、沖縄と北海道の差とどっちが大きいかだ)
自分の使う標準語は、どこかよそよそしく、
嘘っぽく、本音と一対一ではなく、なにかの変換プラグをかまして劣化した感じがする。

英作文のようなものだ。
文法的には合っているかも知れないが、
リアリティーや肌に近い、ネイティブな感じにはならないのだ。
英語をネイティブにするには、
こういうときはこう言うものだ、
こういうときはこうは言わないものだ、
という膨大な不文律や定型的言い回しに接し、
理屈よりも肌感覚で判断出きるまでになることだ。
(外人の彼女をつくるといい、なんてよく言う。
つまり、東京女とつきあえ!)

英作文がなかなかリアルな会話にならないように、
東京近郊以外に住む人にとっては、
標準語の台詞がなかなかリアルにならない。

それは、英語同様、単語の言い回しの入れ替えではないからである。
文化、すなわち、考え方が違うのである。

たとえば大阪と東京を例にとる。
大阪では、笑い、うまい食べ物、派手なこと、あほなこと、反権力が優勢である。
東京では、カッコいいこと、知的なこと、権力につくことが優勢である。
それだけで人間のあり方が違う。
あることへのリアクション、
まず最初に何を思うか、
理想とすること、
相手に無意識に期待していること、
会話の好み、
あることへの前提、
などがまるで違うのだ。

「東京では面白いことが第一の価値ではない」ことの意味が僕はまだ分からない。
おもろなかったら何も価値ないやんけ、と思う。
人間笑って泣いてあほみたいでも懸命に正直に生きたらそれでええやんけ、
と東京の人は思わず、
人間はなるべくスマートに生きるべきである、
と第一に思っているようである。(ほんとのところはまだ分からない)

そんな文化の違いがあるのに、
ある台詞へのリアリティーある台詞への返しが、
同じはずがない。

つまり、標準語で台詞を書くということは、
ボケても突っ込まず、「それは間違いだよ」と「第一に思う」ことなのだ。
自販機で飲み物が出るのが遅かったらボタン連打せず、
何も考えずに待つことを、「第一に無意識に思う」ことなのだ。
(自販機で連打しても無駄なのに連打するのは、関西人だけだそうだ。
エレベーターのボタンなど、早く来る訳ないことを知ってて、
自分のイライラ解消手段としての連打を、関西人以外はしないのだそうだ。
せっかちですぐイライラするの意味でイラチという民族性がある。
ソースは県民ショー)

これは難しい。
標準語で喋る文化を、自分の中に入れなければならない。
言葉は思考だ。
その言葉で語るということは、その文化で考えることと同じだ。

標準語で台詞を書くときは、
まず笑いではなく、まずスマートに考える必要があり、
まず反権力ではなく、まず権力サイドで考える必要がある。

その思考の文化の行き来を、マスター出来るかどうかなのである。


僕は人よりかは、映画もテレビも漫画も好きだったから、
真似しながら台詞を書くことが出来た。
しかし東京に出てきたら、
自分の書く標準語が、どれだけつくりもの臭いか肌で感じるようになる。
とりあえず関西弁で考えた文章を逐語変換しても駄目で、
発想やリアクションや人間や社会のあり方から変えなければならないことに気づいた。
だから一時は自我の分裂の危機に陥る。
数年経つまで、統合しにくいものである。

東京文化、というひとつのものではなく、
関西人にも色々いるように、
東京の人にも色々いる、ということが分かってくると、
ようやくリアリティーがついてくる。

女の台詞が書けないのは、「女」という人がしゃべる言葉を書こうとしてるからで、
女の人にも色々いて、「その女の人」がしゃべる言葉を書けばよいことと、
同じである。

しかし、それがわかるためには、
膨大な例に触れる必要がある。
一人から吸収するのではなく、様々な人からだ。
実例を沢山沢山経験するしかない。
それには、単純に十年くらいはかかると思う。


英作文のほうが楽だ。
外国語だから、という理由で、ネイティブ並の文章ではない、
意味の通じるレベルでよいからだ。

我々東京近郊出身でない者は、
外国文化をもつ、外国語を、ネイティブ並に
リアリティーを持って扱えなければならないのだ。
しかも同じ日本語なのに、という先入観がある。



あなたは英語をネイティブ並に扱えるだろうか。
ひょっとすると、それくらいの努力が、
標準語で台詞を書くのに必要かも知れない。

論文なら簡単だ。リアリティーや自然さは関係ないからだ。
リアルな台詞は、それくらい難しい。


もしあなたが台詞が下手で、
しかも東京近郊出身でないなら、
相応の覚悟をしよう。


注:僕は「地方」という表現が嫌いだ。中央集権主義だからである。
だから文中東京近郊出身かどうかに置き換えてある。
同様に、訛りを「治す」という言い方も大嫌いだ。
訛りは間違いでも病気でもなく、標準語が正しいわけでもないからだ。
しかし、標準語文化とは、地方の言葉の訛りは治すべきだし、
地方が合わせて当然だし、当然というより前提でしかない。
それが大嫌いな時点で、僕は標準語的な発想にはなっていない。
そこは個性で守るべき領域だと思っているが。
posted by おおおかとしひこ at 00:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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