2014年10月17日

「言葉が出ない」が一番いい感想だ

何故なら、それだけ魂を奪っていて、
終わったときに現実に帰ってくるまでに時間がかかる、
ということだからだ。


「多分、大丈夫」は、なかなかの自信作、野心作だが、
4000回再生されたって、
コメントを書き込んでくれる人は2人しかいない。
川久保村井の両ブログのコメントを見ても、50に届かない程度だ。
これには二種類の可能性がある。
詰まらなかったので全員無視したか、
凄く良かったかだ。
(詰まらないなら最後まで見られないだろう。
Youtubeの再生回数は概ね最後まで見た回数だ)


中途半端な出来の時、言葉が生まれる。
考える隙があるからだ。
何故詰まらないのだろう、とか、
ここは詰まらないがここは面白いとか、
分析(言葉)を働かせてしまうのだ。

魂を奪われているとき、
話に夢中になっているとき、
世界にどっぷり入っているとき、
感情移入を深くしているときは、
言葉でないところで観ている。
旅とか体験に近い、と僕は思うが、
言語化できない部分の脳のところを使っていると思う。
面白い、すなわち集中して見れば見るほど、
脳には言葉の生まれる余地はないと思う。

だから感想をのべると、
良かった、とか、泣いた、とか、うおおお、とかの、動物的叫びや、
見た目のこと、つまり二人の関係性や、演劇的手法などの、
「言語的分析」を経ていない言葉が漏れ出てくる。

逆に言語的に分析して見るには、一時停止が有効だ。
どんなに面白く夢中になるものでも、
一時停止は人を冷静にさせる。
(だから映画館で他人に迷惑をかける行為は失礼なのだ)
逆に面白いとは、「集中してしまうこと」と定義出きるだろう。

集中行為は、言語行為ではない。
感覚器を広げる動物的行為だ。
集中するほどでもないもののとき、頭を働かせる余裕が出てくるのだ。

コメントの中に一人だけ、菊花の約について触れている人がいた。
既に知った型に近いから、冷静でいられたのだろう。
自分だったら言うかなあ、と書いた人もいた。深く世界を体験した証拠だ。
自分に置き換える、という感情移入の基本だからだ。


また、一般に、人は自分の考えを言葉にするのは苦手である。
スピーチの原稿をすぐに書ける一般の人は少ない。
(僕だったら三方向ぐらい五分で用意するが)
読書感想文は皆苦手だ。
実は僕も苦手だった。
あまりに夢中で、詳しく思い出せなかったからだ。
逆に詰まらなくて最後まで読んでないやつは、
序盤の場面を中心に、言葉で分析できた。
面白い話ほど、カタルシスが見事だ。

カタルシスは一種の生まれ変わりである、と僕は定義している。
生まれ変わりが劇的であればあるほど、
それ以前のことはカタルシス効果で忘れてしまうものだ。
(すごいいいセックスは前戯を思い出せない)

だから、良かったものほど、
言葉で以前を思い出せないのだ。



感想が思ったほど寄せられなかったことについて、
僕はこのように考えてみたのだが、
実は詰まらなくて感想なしだったりして。
でも駄作ならもっと文句を言うだろうし。
(作者というのは、いくつになってもかように不安なのだ。笑)

例えば僕の好きな作家、
車田正美や西原理恵子や藤子不二雄の目の前にいっても、
僕はなんも言葉が出ない。(そのうち二人は実現した)
好きな人の前に出たら喋れない乙女のように。


あなたの作品が色々言われるのは、
まだまだ中途半端な証拠である。
なんも言えねえわ、ぐらいしか言葉の出ないほど、
すごくいいものをつくろう。
魂を奪おう。

そして、すごくいいものに出会ったら、惜しみ無く拍手を送ろう。
拍手は言語分析を必要としないからだ。
拍手は作者へのメッセージだけでなく、
世間へのメッセージにもなるからだ。
(僕は凄くいい映画を観たら必ず拍手するようにしている。
プロとしてだ。映画館でも、試写室でも。同様にブーイングもする)
posted by おおおかとしひこ at 15:37| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めてコメントします。
私は小説を書いています。
大岡さんの脚本論、お話を書く際にいつも参考にしています。

「たぶん、大丈夫」も観ました。
脚本論のファンとして率直な感想を言いますと、心が震えるほどの感動はありませんでした。

私は女性なので、男性同士の居酒屋でのざっくばらんな会話に共感できない部分がありましたし、(初めての女性が「風俗のブス」という笑い話は、女性からしたらドン引きしかありません。そこでまず心が掴まれません)何より、池やんの奥さんが、夫が亡くなった直後なのにまともに会話していることに違和感がありました。あんなふうに冷静に、「私にも会いに来てくれた」などと語ることができるでしょうか。あのシーンが数ヶ月後の池やん宅ならともかく。「あなたのところにも?私が見たのも幻覚じゃなかったの?」っていう混乱した反応ならわかりますが。まして突然の事故死なら、お通夜かお葬式の段階は、呆然として思考停止に陥っている状態じゃないでしょうか。この奥さん、ほんとにショック受けてるの?って思いました。
主人公の「こんなかたちで…」という客観的なセリフも、型にはまったやりとりだなと感じました。大岡さんが書かれたように、大きく心を動かされたら、人は言葉が出ません。あの場では互いに無言で会釈するのがせいぜいだと思います。
とにかく、主人公と奥さんのやりとりにははっきり言って意味がなかったと思います。ふたりの友情を描くためには、余計な登場人物ではないですか?

偉そうにすみません。人の死に向きあうという圧倒的なシーンを描くなら、細部にこだわってほしかったと思いコメントしました。論より証拠を示して欲しかったです。

男性ふたりの演技はすばらしかったです。
Posted by 原田 at 2014年10月17日 20:21
なんということか、作品名を間違えてしまいました。
「多分、大丈夫」ですね。
大変失礼しました。申し訳ありません。

Posted by 原田 at 2014年10月17日 20:30
原田さんコメントありがとうございます。

本文と引っかけるなら、図らずも下ネタでドン引きしたことで言語野が活発になられたようで。
一回滑ると、こうやって観客の心が離れていくよい例ですね。こうなると何をやっても物語の神様は遠ざかるので、言い訳はしません。

今回の料理が口に合わなかったと思って、次回作で挽回させてください。どんな物語も全ての人を幸せに出来る訳ではないですからね。
他の僕の作品も口に合わないなら、そもそもこの料理長の料理自体が駄目かも知れない…
沢山載せている脚本群をどう思われるか、その他の映像作品をどう思われるか聞いてみたいところ。

作品名を間違えてもわざわざ訂正するあたり、原田さんは丁寧で繊細な方かと思います。
そんな人には僕の、ときに品のない作風自体合わないのかもなあ。
Posted by 大岡俊彦 at 2014年10月18日 00:35
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