俳優は消えるべきだ。
どういうことかと言うと、物語そのものを表現すれば、
俳優個人なんてどうでもよくなるはずだ。
映像は身体性が残る。
どうしても、生身を通して物語る以上、
魂や意味だけで語れない。
(「姿」を見せない、ナレーターだけはそうでない位置にいる)
その肉体の行動を、見ることになる。
物語がはじまったとき、
その役は他人だ。
他人の肉体を持ち、他人の都合で生きている。
が、物語の進展によって感情移入が起こり、
彼らが単なる他人ではなく、
事情や気持ちも見知った他人ではなく、
自分と同一化できると、
他人ではなくなる。
そのとき、俳優という他人は消えている。
それが理想だ。
下手な俳優は、
そこで俺節を入れてくる。
自分が目立ちたい、他より上に行きたい、
という気持ちは俳優という職業を選ぶから当然だし、
野心があるということだ。
しかしそれは俺節という他人要素をまた投入することになることを、
なかなか気づかない俳優は多い。
俺節を序盤に入れるのは歓迎だ。
まだ他人の段階だからだ。
ところが、物語が集中を要するときに俺節を入れないように、
監督も俳優も注意するべきである。
俳優も監督も消えて、
ただ物語だけが体感されていることが理想だ。
上手い俳優ほど、俺節を消す。
下手な俳優ほど、俺節を入れてくる。
前者は物語の構築のため。
後者は成り上がりのため。
ところが、数字を持っているタレントは、
俺節を持っている後者なのだ。
そしてドラマや映画は数字を持っているタレントを使って、
興行の保証をしたがる。
プロデューサーだって前者を使いたい。
しかしスポンサーに保証を求められる。
そんなスポンサーなんか要らんわ!と言いたいが、
今の不景気ではそうもいかない。
そうやって今負のスパイラルに入っている。
物語から、俳優という肉体がはみ出て来るのは詰まらない。
それが分かる俳優たちと仕事をしたいものだ。
ちなみに、脚本家の俺節も同じくだよ。
下ネタは簡単に俺節になりやすいのかもね。リアルな肉体があるからね。
2014年10月19日
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