2014年10月18日

映画と小説の違い:身体性

映画や演劇では、生身の身体を経由する。
その生身の身体性がある。
一方小説では、身体がない。
生身の身体性をつくるのは難しく、放っておくと概念だけになる。

たとえば、生身の殺陣やアクションやダンスの面白さは、
小説で伝えることは困難だが、
映画や演劇では、やってみせればいい。


小説でも、勿論身体描写は可能だ。
だが、説得力において、
肉体の実物がある映像に比べて、不安定なのだ。

身体性の例としてラブシーンをあげてみよう。
映像や演劇では、生身と生身のぶつかり合いの、
事件性そのものが説得力を持つ。
そこで起こることは、実際に起こっていることだ。
ところが、この生身のぶつかり合いをそのまま小説で描写しても、
さしてグッと来ないだろう。
(出来る人は相当な描写力だ。僕にはない)
色々な行為が、どういう意味があるかという、意味性や概念的な描写で、
身体性の代わりとするのではないか。
たとえば「触れた手から幸せの全てが流れ込んできた」と小説で書くのは簡単だが、
映像や演劇では、手で触ってのけぞる、以外の芝居でこれを表現できない。
ある程度感じる芝居は、感じる芝居を10段階ぐらいにして、
1あたりをやっておいてから10にいけば可能だが、
全ての幸せかどうかについては無理だ。

身体性と概念性ということで対比的だ。


逆に小説では身体性から離れることができる。

コピー塾でよくある例題。
テレビCMとラジオCMの違い。
ラジオCMでは、「世界一の美女がやってきた」と書いてよい。
テレビCMでは、その身体を世界一の美女とは表現出来ない。
(ミスワールドのたすきをかけるコント表現以外は無理)

世界一の美女も、世界一のブスも、
小説では存在がすぐ可能になる。
肩書きのようにつくれる。

ところが映像や演劇では、それが出来る身体を探さなければならない。
ピアニストで美女とか、
馬に乗れる子供とか、
ボディビルダーの老人とか、
日本語ペラペラの外人とか、
字の上手い人とか、
巨漢とか小人とか。
(風魔の劉鵬は、やはり身長2メートルの俳優じゃなきゃ、と何度も言われたものだ)
現実にいそうな範囲でシナリオは書かれる。
または出来る人ありきでシナリオは書かれる(あてがき)。
(たとえばオースティンパワーズの小人俳優。あの人ありきの台本だ)

その縛られない度合いは、小説のほうが自在だ。
肉体から離れるし、肉体を好きなようにつくれる。
ただひとつだけ、
そこに存在している存在感だけ、小説にはない。

恐らく場面だけなら小説でも肉薄することは可能だろう。
しかし肉薄という言葉が示すように、努力して迫らないと難しい。
味のある人の笑顔の写真一枚に負けることも沢山あるだろう。

映像や演劇では、肉体の生身でどこまでも勝負する。
イケメンや美女はそれだけで説得力がある。
不細工や味のある人はそれだけで説得力がある。
面白い動きが出来る人はそれだけで説得力がある。

逆に小説にその武器はない。
小説では意味や概念で描写する。
いきおい、考えたことが大事で、身体を使って証明することは書かなくなる。
ロッキーを小説にするときの、試合シーンはどう書かれるだろう。
生卵を何個も割り一気のみする名シーンはどう書かれるだろう。
汚い商店街を走ってリンゴを投げられる名シーンはどう書かれるだろう。
アイススケート場で、エイドリアンがスケート靴でロッキーは普通の革靴という差は、
どう書かれるだろう。
肉体の説得力の困難な小説は、
恐らくそれがどんな意味があるか、どんな思考があるか、
を中心に書かれるのではないかと思う。
生卵を飲んでえづく感じや、スケート靴の足音と革靴の足音が違うまま延々と一周する感じは、
多分小説には書けないだろう。
(それ単独では勿論書けるだろうが、ストーリー進行の小道具としての機能の話だ)

小説には「見れば分かること」がない。
見て分かった意味を書かなければならない。
逆に映像や演劇では、「純粋な思考や感情」がない。
カメラで撮れることしか、写せない。


てんぐ探偵は元々映像前提の話だ。小説版第五話(めんくい)は、
不細工の佇まいがそもそも説得力がある、という話だった。
が、小説にはその肉体がないので非常に難しかった。
上手く書けたかどうかは皆さんの判断に委ねたい。
posted by おおおかとしひこ at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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