映画や演劇では、生身の身体を経由する。
その生身の身体性がある。
一方小説では、身体がない。
生身の身体性をつくるのは難しく、放っておくと概念だけになる。
たとえば、生身の殺陣やアクションやダンスの面白さは、
小説で伝えることは困難だが、
映画や演劇では、やってみせればいい。
小説でも、勿論身体描写は可能だ。
だが、説得力において、
肉体の実物がある映像に比べて、不安定なのだ。
身体性の例としてラブシーンをあげてみよう。
映像や演劇では、生身と生身のぶつかり合いの、
事件性そのものが説得力を持つ。
そこで起こることは、実際に起こっていることだ。
ところが、この生身のぶつかり合いをそのまま小説で描写しても、
さしてグッと来ないだろう。
(出来る人は相当な描写力だ。僕にはない)
色々な行為が、どういう意味があるかという、意味性や概念的な描写で、
身体性の代わりとするのではないか。
たとえば「触れた手から幸せの全てが流れ込んできた」と小説で書くのは簡単だが、
映像や演劇では、手で触ってのけぞる、以外の芝居でこれを表現できない。
ある程度感じる芝居は、感じる芝居を10段階ぐらいにして、
1あたりをやっておいてから10にいけば可能だが、
全ての幸せかどうかについては無理だ。
身体性と概念性ということで対比的だ。
逆に小説では身体性から離れることができる。
コピー塾でよくある例題。
テレビCMとラジオCMの違い。
ラジオCMでは、「世界一の美女がやってきた」と書いてよい。
テレビCMでは、その身体を世界一の美女とは表現出来ない。
(ミスワールドのたすきをかけるコント表現以外は無理)
世界一の美女も、世界一のブスも、
小説では存在がすぐ可能になる。
肩書きのようにつくれる。
ところが映像や演劇では、それが出来る身体を探さなければならない。
ピアニストで美女とか、
馬に乗れる子供とか、
ボディビルダーの老人とか、
日本語ペラペラの外人とか、
字の上手い人とか、
巨漢とか小人とか。
(風魔の劉鵬は、やはり身長2メートルの俳優じゃなきゃ、と何度も言われたものだ)
現実にいそうな範囲でシナリオは書かれる。
または出来る人ありきでシナリオは書かれる(あてがき)。
(たとえばオースティンパワーズの小人俳優。あの人ありきの台本だ)
その縛られない度合いは、小説のほうが自在だ。
肉体から離れるし、肉体を好きなようにつくれる。
ただひとつだけ、
そこに存在している存在感だけ、小説にはない。
恐らく場面だけなら小説でも肉薄することは可能だろう。
しかし肉薄という言葉が示すように、努力して迫らないと難しい。
味のある人の笑顔の写真一枚に負けることも沢山あるだろう。
映像や演劇では、肉体の生身でどこまでも勝負する。
イケメンや美女はそれだけで説得力がある。
不細工や味のある人はそれだけで説得力がある。
面白い動きが出来る人はそれだけで説得力がある。
逆に小説にその武器はない。
小説では意味や概念で描写する。
いきおい、考えたことが大事で、身体を使って証明することは書かなくなる。
ロッキーを小説にするときの、試合シーンはどう書かれるだろう。
生卵を何個も割り一気のみする名シーンはどう書かれるだろう。
汚い商店街を走ってリンゴを投げられる名シーンはどう書かれるだろう。
アイススケート場で、エイドリアンがスケート靴でロッキーは普通の革靴という差は、
どう書かれるだろう。
肉体の説得力の困難な小説は、
恐らくそれがどんな意味があるか、どんな思考があるか、
を中心に書かれるのではないかと思う。
生卵を飲んでえづく感じや、スケート靴の足音と革靴の足音が違うまま延々と一周する感じは、
多分小説には書けないだろう。
(それ単独では勿論書けるだろうが、ストーリー進行の小道具としての機能の話だ)
小説には「見れば分かること」がない。
見て分かった意味を書かなければならない。
逆に映像や演劇では、「純粋な思考や感情」がない。
カメラで撮れることしか、写せない。
てんぐ探偵は元々映像前提の話だ。小説版第五話(めんくい)は、
不細工の佇まいがそもそも説得力がある、という話だった。
が、小説にはその肉体がないので非常に難しかった。
上手く書けたかどうかは皆さんの判断に委ねたい。
2014年10月18日
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