以前のこの話と、先の小説には身体性が希薄である話を総合すると、
小説では肉体を持つバトルを描くのが苦手だ、ということになる。
スポーツ小説や、格闘小説などで、
実際の肉弾戦を活写しているものって多いのかな。
僕は小説をほとんど読まないので詳しくない。
映画化前提で「バッテリー」「一瞬の風になれ」を読まされたが、
どちらも試合シーンはほとんどなかった。
なんでないんだろう、作者が女性で競技経験もなく、
だから男の身体性の実感がないのだろうか、などと簡単に考えていた。
(その身体性の希薄さが気になり、「一瞬の風になれ」の映画化企画のときは、
「息を止めて十秒」という仮タイトルでプロットを書いた。
が、主導が女性プロデューサーだったため、身体性の希薄さよりも、
男同士の友情メインで見たいと言われ困惑した覚えがある。
それはBLと同じファンタジーではないか、と反論したが、
いいじゃないファンタジー、と悪びれもしなかったので、
議論がすすまなかった経験がある)
書いてみた実感では、肉体バトルよりも、
概念的なバトルのほうが書きやすいと思った。
(書きやすいかどうかだけで、実際面白いかどうかはまた別)
だからたぶん、
バトル小説というのがあるならば、
肉体を介するものより精神や思考のバトルなのではないか。
(極端にいうと、将棋は小説になるかも知れない)
逆に、小説では、どんなものでも、
肉体バトルよりも、人生というバトルを書くのではないだろうか。
アクション映画の最高峰のひとつ、
「プロジェクトA」や「スパルタンX」は、だから多分小説にならないだろう。
僕のベストムービー「ルパン三世カリオストロの城」も、
多くの名アクションで、登場人物のプロットや心情を表現する、
「動きで話を語る」名作だが、小説化するとなれば、
名アクションの数々が身体性を伴わない、「意味」だけで語られる可能性がある。
(たとえば冒頭のクラリス救出劇で、崖の側面を走るコメディ的漫画的場面などは、
文章ではその面白さは無理だろう)
たとえばカンフーものを小説に書くことは、もっとも難しいのではないか。
戦うことになった理由などの、人生というバトルがメインになるだろう。
ここまで書いて思い出したのだが、時代劇小説はどうなのだろう。
剣戟は身体性を持って描写されるのだろうか。
太刀筋を鍛えることは描写されるのだろうか。
藤沢周平原作映画を見る限り、立ち合いよりも、
人生というバトルがメインの物語のようである。
で、結局、話は物語に戻ってくる。
小説は、多分肉体を介さないバトルなら書けるが、
メインは人生というバトルである。
アクション映画は、肉体というそのものの説得性だけで突っ走る。
映画はその中間だ。
人生バトルをメインにしながらも、
ACT=行動(またはアクション)で、人生というバトルを表現するのである。
2014年10月18日
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