2014年10月18日

バトルものは、実写映画にならない2

以前のこの話と、先の小説には身体性が希薄である話を総合すると、
小説では肉体を持つバトルを描くのが苦手だ、ということになる。


スポーツ小説や、格闘小説などで、
実際の肉弾戦を活写しているものって多いのかな。
僕は小説をほとんど読まないので詳しくない。
映画化前提で「バッテリー」「一瞬の風になれ」を読まされたが、
どちらも試合シーンはほとんどなかった。
なんでないんだろう、作者が女性で競技経験もなく、
だから男の身体性の実感がないのだろうか、などと簡単に考えていた。
(その身体性の希薄さが気になり、「一瞬の風になれ」の映画化企画のときは、
「息を止めて十秒」という仮タイトルでプロットを書いた。
が、主導が女性プロデューサーだったため、身体性の希薄さよりも、
男同士の友情メインで見たいと言われ困惑した覚えがある。
それはBLと同じファンタジーではないか、と反論したが、
いいじゃないファンタジー、と悪びれもしなかったので、
議論がすすまなかった経験がある)


書いてみた実感では、肉体バトルよりも、
概念的なバトルのほうが書きやすいと思った。
(書きやすいかどうかだけで、実際面白いかどうかはまた別)

だからたぶん、
バトル小説というのがあるならば、
肉体を介するものより精神や思考のバトルなのではないか。
(極端にいうと、将棋は小説になるかも知れない)

逆に、小説では、どんなものでも、
肉体バトルよりも、人生というバトルを書くのではないだろうか。
アクション映画の最高峰のひとつ、
「プロジェクトA」や「スパルタンX」は、だから多分小説にならないだろう。
僕のベストムービー「ルパン三世カリオストロの城」も、
多くの名アクションで、登場人物のプロットや心情を表現する、
「動きで話を語る」名作だが、小説化するとなれば、
名アクションの数々が身体性を伴わない、「意味」だけで語られる可能性がある。
(たとえば冒頭のクラリス救出劇で、崖の側面を走るコメディ的漫画的場面などは、
文章ではその面白さは無理だろう)

たとえばカンフーものを小説に書くことは、もっとも難しいのではないか。
戦うことになった理由などの、人生というバトルがメインになるだろう。

ここまで書いて思い出したのだが、時代劇小説はどうなのだろう。
剣戟は身体性を持って描写されるのだろうか。
太刀筋を鍛えることは描写されるのだろうか。
藤沢周平原作映画を見る限り、立ち合いよりも、
人生というバトルがメインの物語のようである。


で、結局、話は物語に戻ってくる。

小説は、多分肉体を介さないバトルなら書けるが、
メインは人生というバトルである。
アクション映画は、肉体というそのものの説得性だけで突っ走る。
映画はその中間だ。
人生バトルをメインにしながらも、
ACT=行動(またはアクション)で、人生というバトルを表現するのである。
posted by おおおかとしひこ at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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