執筆中、ついこれをやっていないか。
なんかでごまかして、何か書いた気になっていないか。
大抵それはばれている。
それはだらだら書いているときは、
何も書いてないからだ。
書いている、とは、「メインプロットの進行」のことだけについて言う。
サブプロットも、キャラクターの感情移入も、
ひょっとしたらただのほのぼのシーンも、
それは、実質何も書いていない。
もちろん、「メインプロットの進行に必要なこと」であるならば、
それは存在を許される。
サブプロットは、メインプロットの進行に関わりがあるのなら、
それは何かを書いている。
キャラクターの感情移入は、メインプロットの進行に関係があるなら、
それは何かを書いている。
ただのほのぼのシーンは、メインプロットの進行に関係があるなら、
それは何かを書いている。
たとえば風魔の7話、たまねぎの皮を剥くシーンは、
ただのほのぼのシーンの息抜きではない。
「青春ってなんだ」というメインプロットに関わることへ落ちてゆくから、
存在の意味があるのだ。
手癖やリアリティーで、
何かをとりあえず書いてしまうことは、よくあることだ。
それを書きたいという衝動が創作意欲であることもあるだろう。
それはそれで構わない。
問題は、それがメインプロットの進行に関わっているかどうかだ。
だらだら書くと、メインプロットとの関わりを避けてしまう。
正面から関わりを避けるから、だらだら書いて楽になりたいのだ。
それは、無意識の逃避行動である。
これを外から眺めると、いつまでたっても本題が進まないなあ、
逃げてんじゃないの?とばればれなのである。
だらだら書いて、なんとなく落ちをつけて、
書いた気になってはいけない。
本題に興味を持たせ、本題の進行に夢中にさせるための、
一行も無駄にできないその部分を書いているのだということを、
いつも自覚しよう。
で、本題ってなんだっけ?
と、時々自分に問うのはいいことだ。
その場面、本題の進行に必要?
と、時々自分に問うのはいいことだ。
だらだら書くのは、おしゃべりのように、思いつきで書けて楽しい。
それが、書いた気にさせるのである。
もし本題が始まる前の、あなたの気持ちの助走部分であるとしたら、
本題が始まる以降だけを残してその前をばっさり切るといい。
本題が、物語であるのだから。
(困ったことに、本題のはじまるこの前の部分が、
物凄く魅力的な書き方をする人がいる。
しかし本題がはじまったら、途端につまらなくなることも真実だ。
そういう人は、要するに本題を書く実力がないのである)
2014年10月20日
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