動機がわからないのは最低だ。
どの時点で一時停止しても、
「さてこの人物の動機は何でしょう(何がしたい、またはしたくないのでしょう)」
という問いを出したとき、誰もが答えられるように、
動機は常に明らかでならねばならない。
(ただし物語が立ち上がる前の最序盤と、「謎の動機」で引っ張る例外を除く)
しかし、「分かっている」ことは最低限必要なことであり、
本当に必要なことは「それに感情移入していること」だ。
頭による理解と、心からの理解と言うべきか。
まず頭で分からない限り、
心からの理解は無理だろう。
今あることからの推測だけではもの足らず、
時に自分の動機を台詞の形で誰かに明言することすら、
重要かも知れない。
(日本語は察する文化だから、明らかな場合はわざわざ言わなくてもいい場合もある)
なるほどこの人はこれがしたいのか、
と頭で分かってからが本番だ。
その人のしたいことが、観客もしたくなることが大事だ。
それは、感情移入によってなされることだ。
主人公が悪を倒したいと思うのなら、
観客も本気で悪を倒したいと思わせるべきだ。
(多くのヒーローものは形式主義に陥っていてここが甘い。
「スパイダーマン」「スパイダーマン2」「キックアス」は、
これをなし得た傑作である)
主人公が人を助けたいと思うのなら、本気で皆が助けたいと思うべきだ。
(大抵それは、理不尽に置かれた悲惨な人を助けることでなされる。
そうでないパターンもある)
主人公が恋を成就させたいと願うなら、本気で皆がその恋の行方を見守るものにするべきだ。
(多くの少女漫画原作映画はただイケメンだから恋してるパターンが多い。
俺ら男が見ても、惚れるもやむなしなエピソードでないかぎり感情移入は起こらない)
主人公が人を殺したいと願うなら、観客は本気で殺したいと思うべきだ。
(倫理上の問題を越えても、だ)
主人公がナチスの秘宝を求めるなら、観客は本気でそれが欲しいと思うべきだ。
(インディジョーンズはそこまで思わせていない。
しかし危機が迫ることで感情移入は起こりやすくなる)
また、主人公だけでなく、
敵役、悪役にも相応の感情移入をさせるのが正しい。
時々悪役の方に感情移入してしまう作品すらある。
日本の多くの刑事物はそのパターンで、
それでも罪を償うというビターエンドを好む。
主人公と敵、両方に感情移入すると楽しい。
それぞれの思いも分かる、出来れば両方を叶えたい、
しかし悲しいかな、対立しあう両者は、
一人しか勝者がいないのだ、になるからだ。
これが更に三人以上の動機に感情移入が出来たら最高だ。
それぞれの交錯する思い、叶えられる思いと叶えられない思いが出てくるからだ。
そのもどかしさや勝利への納得は、
頭でなく心で感じると最高である。
これが話に夢中になっているということだ。
これが、コンフリクトを楽しむということだ。
ある登場人物が、○○したい、
と思う動機は、どうやったら感情移入に至るだろうか。
それは、これまでにも書いているとおり、
「誰もが○○したい、と思う目に遭わせること」だ。
動機は強い方がいい。
だから、出来れば、
「誰もがどうしても○○したい、命と引き換えに○○したい、
と思う目に遭わせること」が大事である。
それは、原則通り、その登場人物の初出がよい。
主人公は最もそれがうまくいく、最初の人物でなければならない。
だから映画は、主人公の日常からはじまるのだ。
日常を描くのは仮の姿で、
日常を通して、彼に感情移入する出来事をまず起こすのである。
その他の人物も、なるべく初出でこれをやるのが効率的だ。
難しければ、映画には便利な道具がある。
その人の語りによる過去の回想である。
(だが安易な為、脚本の教科書によっては回想を禁じるものもある。
回想を使わずに工夫することが、筆力を鍛えるからだ)
セットアップとは何をすることか。
動機の頭による理解と、なるべくなら心による感情移入である。
これらがスムーズにいけばいくほど、
物語の中盤はより盛り上がる。
頭で動機を理解したって、
多分面白くない。
目の前に格闘家が二人闘っていても、
格闘技に詳しくない人はよく分からないから夢中にはならないだろう。
ところが、Prideでは、「煽りV」と呼ばれる秀逸な前説があった。
この闘いにかける思いの丈を、ドキュメントと名文で表現したのだ。
ミルコの墓参りで、彼の思いに感情移入する。
美濃輪育久(当時)が喘息持ちでキン肉マンのような超人になりたいと語ったやつでは、
喘息持ちの僕は泣いた。
一発で、総合格闘技でかけにくいプロレス技にこだわる彼の思いに感情移入した。
だから試合中プロレス技の形に入りかけると、拳に力が入るのだ。
頭で勝ちたいと動機がわかるだけではここまで入り込めない。
心で感情移入しているからこそ、こうなるのだ。
Prideの煽りVは、神がかって良かった。
興行がなくなったのが惜しまれる。
物語は頭で見るのではない。心で夢中になるものだ。
逆に、頭で見るものが心で夢中になったとき、
それはどんなものでも物語化する。
2014年10月21日
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