2014年10月21日

動機が分かることと感情移入すること2

動機が分かり、感情移入する過程において、
注意すべきは「自分を書いてはいけない」という、
例の戒めである。


作家は誰しもが自分のことを書く。
自分の思う人間のこと、
自分の思う社会のこと、世界のこと。
しかしそれが主観的であっては意味がない。
それはあなたの個人的な意見であり主張にすぎない。
小説なら一人称でその世界に巻き込むことが出来る(かも知れない)が、
映画は三人称形式だ。

目の前で動機を持ち、感情移入すべき人は、
他人である。

どうやったら自分とは全く違う他人に感情移入させるか、
を考えるときに、
その登場人物が自分であったら、判断が曇る。
自分には感情移入してしまうのが人間だ。
自分を書くと、作者だけが感情移入しているのに、
他の人は全く感情移入出来ない、という、
作者だけが気づいていない状況が訪れる。
王様は裸だ。

その作者はいつまでたっても分からない。
自分はどっぷり感情移入出来る傑作をものにしたのに、
実は観客が全くついてきていないことが。

自分を書いているからだ。
自分だけが分かる感情の動き、
自分だけが知っている常識、
自分だけが知らない常識、
自分だけが辛いこと、
自分だけが楽をしたいこと。(最後のことはご都合主義として現れる)

他の人からしたら、
え、なんで?どうして?の連発だったとしても、
自分の中だけでは完結しているから、
そこに気づかない。
むしろ、こんな名作を理解しないやつは感度が低いぐらいに考えている。
そして今の客は民度が低いなどと嘆くのだ。

これを一般的に客観性がない、と言ったりする。


あなたの日記やオナニーなら構わない。
或いはいくらでも解説を足せる一人称小説ならOKかも知れない。
(近代的自我を扱った近代小説はそうだと言われるが、
読んでいないので断言できない。また、現代に面白いかどうかも分からない)

ところが、映画は三人称形式だ。
見知らぬ他人に感情移入させるのだ。

従って、あなたが自分に感情移入することを書くのではなく、
「あなたが他人に感情移入出来ること」を書くのだ。

全然自分とは関係ない、
全く興味もない、
立場も境遇も性格も人生観も全然違う、
むしろ仲良くなりたくない他人なのに、
何故だか感情移入してしまうことを、
書くのだ。


現実的にはそこまでは難しい。
職業や年齢が違うだけで、内面や性格はかなり作者と近い、
というのが実際だ。
それは書きやすいからだ。
全くの他人の思考や発想をシミュレートすることはストレスがかかるからだ。
実際的に多いのは、他人の性格と作者の性格の融合だ。
(例えば風魔の小次郎は、車田正美原作の小次郎に、
僕の成分が混じっている)
だから、登場人物には誰か他人のモデルがいるとやりやすい。
その人を自分の中に取り込んで、物真似しながら、
自分と融合した人物をつくりだしやすい。
登場人物は全部作者の分身だ、とはそのようなことを言う。
(風魔だって、竜魔も壬生も姫子も蘭子も絵里奈も霧風も陽炎も、
全部僕の成分が混じっている。オリジナルの成分が高ければ高いほど。
武蔵はなるべく原作準拠と決めていたけど)

だが、それは程度問題であって、
別の他人に感情移入するプロセスを省いていい訳ではない。


別の他人に感情移入するプロセスを考えよう。
その人に、どういうときに感情移入するのか。
ふたつある。
その人がピンチになったときに、どういう対応をするかという、
行動と、
その人の意外な内面が知れたときである。

例えば全くの他人、体の貧弱な駅員さんを考えよう。
駅でゴツい怖い人に絡まれている人に、
毅然とした態度で臨み撃退する場面を見れば、
「案外やるじゃないか」と、好感度がアップする。
その後、例えば全員帰ってから一人で黙々と掃除する様などを見せる。
この駅が好きだからだ。
そうすると、たとえば「この駅から別の駅に移ってくれ」という命令にたいして、
「この駅を去るのは嫌だ」という彼の動機に感情移入するのだ。

指令が先にあり、彼の動機を頭で分からせることは出来る。
しかし指令より前に、
我々は彼のピンチへの行動や、意外な内面を知っている。
知っているからには、彼の気持ちが他人事でなくなるのだ。

駅員の話を続けてみる。
どうしてですか、と上長に食い下がると、
この駅は取り壊すのだ、対して客もいないからな、合理化だ、と言われる。
そんなことないです、この駅はみんなが利用して、愛されているのです、
本社に掛け合っていいですか、と行動を始めれば、
その行動の行方が気になるものだ。

こうやって、見も知らない他人が、
多少見知った(ある種の共感を持った)人になり、
その人の動機を頭で分かり心で同意し、
その人の行動に興味を持つのである。

今適当な思いつきで書いているが、
駅員さんの話を書こうと思ったら、
もっと色々な取材をして、リアルな感情を知った方がいいだろう。
そこで知った、あなたが感情移入してしまった出来事を中心に書くと、
「他人なのに感情移入してしまうこと」が書けるかも知れない。


第一幕の最も大事なことは、
このような主人公と観客の気持ちを繋ぐことだ。
このあと駅の存続に関する色々なドラマで、
更に感情移入は深くなり、この駅員と自分が一体化するようなエピソードが、
二幕で繰り広げられる筈だ。

勿論、これは主人公に限らない。
敵役にも感情移入したいし、脇役にもしたい。
コンフリクトを楽しみたい。
どの他人にも感情移入させることが出来るようになるためには、
「自分と関係ない人に感情移入させること」が書けなければならない。
「自分に感情移入してもらうこと」を書いてやしないか。
posted by おおおかとしひこ at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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