動機が分かり、感情移入する過程において、
注意すべきは「自分を書いてはいけない」という、
例の戒めである。
作家は誰しもが自分のことを書く。
自分の思う人間のこと、
自分の思う社会のこと、世界のこと。
しかしそれが主観的であっては意味がない。
それはあなたの個人的な意見であり主張にすぎない。
小説なら一人称でその世界に巻き込むことが出来る(かも知れない)が、
映画は三人称形式だ。
目の前で動機を持ち、感情移入すべき人は、
他人である。
どうやったら自分とは全く違う他人に感情移入させるか、
を考えるときに、
その登場人物が自分であったら、判断が曇る。
自分には感情移入してしまうのが人間だ。
自分を書くと、作者だけが感情移入しているのに、
他の人は全く感情移入出来ない、という、
作者だけが気づいていない状況が訪れる。
王様は裸だ。
その作者はいつまでたっても分からない。
自分はどっぷり感情移入出来る傑作をものにしたのに、
実は観客が全くついてきていないことが。
自分を書いているからだ。
自分だけが分かる感情の動き、
自分だけが知っている常識、
自分だけが知らない常識、
自分だけが辛いこと、
自分だけが楽をしたいこと。(最後のことはご都合主義として現れる)
他の人からしたら、
え、なんで?どうして?の連発だったとしても、
自分の中だけでは完結しているから、
そこに気づかない。
むしろ、こんな名作を理解しないやつは感度が低いぐらいに考えている。
そして今の客は民度が低いなどと嘆くのだ。
これを一般的に客観性がない、と言ったりする。
あなたの日記やオナニーなら構わない。
或いはいくらでも解説を足せる一人称小説ならOKかも知れない。
(近代的自我を扱った近代小説はそうだと言われるが、
読んでいないので断言できない。また、現代に面白いかどうかも分からない)
ところが、映画は三人称形式だ。
見知らぬ他人に感情移入させるのだ。
従って、あなたが自分に感情移入することを書くのではなく、
「あなたが他人に感情移入出来ること」を書くのだ。
全然自分とは関係ない、
全く興味もない、
立場も境遇も性格も人生観も全然違う、
むしろ仲良くなりたくない他人なのに、
何故だか感情移入してしまうことを、
書くのだ。
現実的にはそこまでは難しい。
職業や年齢が違うだけで、内面や性格はかなり作者と近い、
というのが実際だ。
それは書きやすいからだ。
全くの他人の思考や発想をシミュレートすることはストレスがかかるからだ。
実際的に多いのは、他人の性格と作者の性格の融合だ。
(例えば風魔の小次郎は、車田正美原作の小次郎に、
僕の成分が混じっている)
だから、登場人物には誰か他人のモデルがいるとやりやすい。
その人を自分の中に取り込んで、物真似しながら、
自分と融合した人物をつくりだしやすい。
登場人物は全部作者の分身だ、とはそのようなことを言う。
(風魔だって、竜魔も壬生も姫子も蘭子も絵里奈も霧風も陽炎も、
全部僕の成分が混じっている。オリジナルの成分が高ければ高いほど。
武蔵はなるべく原作準拠と決めていたけど)
だが、それは程度問題であって、
別の他人に感情移入するプロセスを省いていい訳ではない。
別の他人に感情移入するプロセスを考えよう。
その人に、どういうときに感情移入するのか。
ふたつある。
その人がピンチになったときに、どういう対応をするかという、
行動と、
その人の意外な内面が知れたときである。
例えば全くの他人、体の貧弱な駅員さんを考えよう。
駅でゴツい怖い人に絡まれている人に、
毅然とした態度で臨み撃退する場面を見れば、
「案外やるじゃないか」と、好感度がアップする。
その後、例えば全員帰ってから一人で黙々と掃除する様などを見せる。
この駅が好きだからだ。
そうすると、たとえば「この駅から別の駅に移ってくれ」という命令にたいして、
「この駅を去るのは嫌だ」という彼の動機に感情移入するのだ。
指令が先にあり、彼の動機を頭で分からせることは出来る。
しかし指令より前に、
我々は彼のピンチへの行動や、意外な内面を知っている。
知っているからには、彼の気持ちが他人事でなくなるのだ。
駅員の話を続けてみる。
どうしてですか、と上長に食い下がると、
この駅は取り壊すのだ、対して客もいないからな、合理化だ、と言われる。
そんなことないです、この駅はみんなが利用して、愛されているのです、
本社に掛け合っていいですか、と行動を始めれば、
その行動の行方が気になるものだ。
こうやって、見も知らない他人が、
多少見知った(ある種の共感を持った)人になり、
その人の動機を頭で分かり心で同意し、
その人の行動に興味を持つのである。
今適当な思いつきで書いているが、
駅員さんの話を書こうと思ったら、
もっと色々な取材をして、リアルな感情を知った方がいいだろう。
そこで知った、あなたが感情移入してしまった出来事を中心に書くと、
「他人なのに感情移入してしまうこと」が書けるかも知れない。
第一幕の最も大事なことは、
このような主人公と観客の気持ちを繋ぐことだ。
このあと駅の存続に関する色々なドラマで、
更に感情移入は深くなり、この駅員と自分が一体化するようなエピソードが、
二幕で繰り広げられる筈だ。
勿論、これは主人公に限らない。
敵役にも感情移入したいし、脇役にもしたい。
コンフリクトを楽しみたい。
どの他人にも感情移入させることが出来るようになるためには、
「自分と関係ない人に感情移入させること」が書けなければならない。
「自分に感情移入してもらうこと」を書いてやしないか。
2014年10月21日
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