2014年10月23日

「映画とは美男美女のもの」は本当か

いまだに納得がいかないし、答えが出ている訳ではないが。
「いけちゃんとぼく」の主役ヨシオを決めるとき、
もう一人のイケメンと最終オーディションをしたときの話。

僕は不細工の深澤嵐のほうが芝居も面構えもいいと思ったが、
プロデューサー陣はことごとく反対した。
「映画は美男美女のもの」だから、というのがその理由だ。


ある面では真実であると思う。

美男美女は、客引きが強い。
例え内容が詰まらなくても、目の保養になったというだけで文句を言われず、
それどころか保存版ということでDVDが売れたりする。
内容のことを考えなければ、美男美女にするのが正解だ。

あるいは、「美男美女にうっとりすることが映画である」と、
内容にまで踏み切って断言することすら可能だとも思う。


また、仮に醜い物語だとしても、
美男美女なら見るに耐えるということもある。
美男美女は感情移入も不細工よりしやすい。


しかしこれが、本当の真実だろうか。
今回は僕は明確な答えを持っていない。

ただ、物語とは(映画とは、とは言っていない)、
必ずしも美男美女のものではない、
のは真実だと思う。

不細工のほうが世の中には多い。
不幸をバネにし幸福を勝ち取るのが物語の原型だとしたら、
はじめから勝ち組の美男美女が物語足り得るか、
に、僕は明確な答えを持っていない。

不細工な役を美男美女がやるのも不自然だ。

不細工とは関係ないビハインドをつくり、
顔の美醜とは関係ない物語を書くべきである、
という答えもあり得ると思う。



僕は、銀河鉄道999の哲郎が、映画版だけイケメンになったことに、
その闇を感じる。
何故不細工な哲郎と美女メーテルが旅をするビジュアルではいけないのか。
不細工では売れない、美男のほうが売れる、と思うその心の働きはなにか。

そこのところに明確な答えが出せないままでいる。

イケメンのほうが見てていいに決まってるじゃん、
可愛い女の子のほうがいいよ、と思うのは勝手だ。
その勝手さに、うまく答えられないのだ。


ディズニー版「ノートルダムのせむし男」が姫と結婚できないのにも納得がいかない。
「美女と野獣」の野獣が人間に戻ったとき美男なのも納得がいかない。
それはオレがイケメンじゃないかも知れない。
顔面にコンプレックスを持つ人が、そうでないところで成功する物語は、
映画には向かないのかも知れないが、物語の型としてはありえると思う。

第一、これだけイケメンとかビジュアルのことを言う社会は、
現代が一番厳しいのではないか。


「ジャニーズドラマが視聴率が取れない」と嘆くプロデューサー達は、
人は何を見るためにそれを見るのか、を根本から考えたほうがいいかも知れない。

物語が面白く、しかも新鮮な美男美女が出たとき、
両方が噛み合ったときそれがヒットするのは、分る。


映画は美男美女のものだろうか。
ぼくはまだ分らないのが正直なところだ。
posted by おおおかとしひこ at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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