いまだに納得がいかないし、答えが出ている訳ではないが。
「いけちゃんとぼく」の主役ヨシオを決めるとき、
もう一人のイケメンと最終オーディションをしたときの話。
僕は不細工の深澤嵐のほうが芝居も面構えもいいと思ったが、
プロデューサー陣はことごとく反対した。
「映画は美男美女のもの」だから、というのがその理由だ。
ある面では真実であると思う。
美男美女は、客引きが強い。
例え内容が詰まらなくても、目の保養になったというだけで文句を言われず、
それどころか保存版ということでDVDが売れたりする。
内容のことを考えなければ、美男美女にするのが正解だ。
あるいは、「美男美女にうっとりすることが映画である」と、
内容にまで踏み切って断言することすら可能だとも思う。
また、仮に醜い物語だとしても、
美男美女なら見るに耐えるということもある。
美男美女は感情移入も不細工よりしやすい。
しかしこれが、本当の真実だろうか。
今回は僕は明確な答えを持っていない。
ただ、物語とは(映画とは、とは言っていない)、
必ずしも美男美女のものではない、
のは真実だと思う。
不細工のほうが世の中には多い。
不幸をバネにし幸福を勝ち取るのが物語の原型だとしたら、
はじめから勝ち組の美男美女が物語足り得るか、
に、僕は明確な答えを持っていない。
不細工な役を美男美女がやるのも不自然だ。
不細工とは関係ないビハインドをつくり、
顔の美醜とは関係ない物語を書くべきである、
という答えもあり得ると思う。
僕は、銀河鉄道999の哲郎が、映画版だけイケメンになったことに、
その闇を感じる。
何故不細工な哲郎と美女メーテルが旅をするビジュアルではいけないのか。
不細工では売れない、美男のほうが売れる、と思うその心の働きはなにか。
そこのところに明確な答えが出せないままでいる。
イケメンのほうが見てていいに決まってるじゃん、
可愛い女の子のほうがいいよ、と思うのは勝手だ。
その勝手さに、うまく答えられないのだ。
ディズニー版「ノートルダムのせむし男」が姫と結婚できないのにも納得がいかない。
「美女と野獣」の野獣が人間に戻ったとき美男なのも納得がいかない。
それはオレがイケメンじゃないかも知れない。
顔面にコンプレックスを持つ人が、そうでないところで成功する物語は、
映画には向かないのかも知れないが、物語の型としてはありえると思う。
第一、これだけイケメンとかビジュアルのことを言う社会は、
現代が一番厳しいのではないか。
「ジャニーズドラマが視聴率が取れない」と嘆くプロデューサー達は、
人は何を見るためにそれを見るのか、を根本から考えたほうがいいかも知れない。
物語が面白く、しかも新鮮な美男美女が出たとき、
両方が噛み合ったときそれがヒットするのは、分る。
映画は美男美女のものだろうか。
ぼくはまだ分らないのが正直なところだ。
2014年10月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック