いいクライマックスかどうかは、
その解決が腑に落ちるかどうかの、その具合で決まると思う。
どんなに金をかけた大クライマックスだろうが、
どんなにミニマムな芝居だろうが、
今までの問題を全て、今までの伏線を全て、
一発で全解決するとき、
おそらくすとんと腑に落ちるのだと思う。
逆にいまいち腑に落ちないのは、
それで解決したことになるかなあ、という微妙な解決だったり、
これ解決、そしてこれ解決、とだらだら解決が続いたり、
あれどうなったんだっけ、という解決してない伏線が残った時だ。
問題には外的問題と内的問題がある。
外的問題とは、冒頭に起こった事件の解決だ。
お話全てを通じ、ターニングポイントをいくつも経ながら焦点や目先が変わりながら、
根本のこの本題を解決しないと話が終わらないというものだ。
(外的問題は、冒頭の事件ではまだその端緒で、
第一ターニングポイントではセンタークエスチョンの形で大体の形がみえ、
第二ターニングポイントではあとひとつの解決までいけばよい、
となっているはずだ)
それは、サブ問題に分岐したりして、
最終的には当初想像もつかなかったような、
複雑な問題に発展している筈だ。
とにかくこれが、だらだらとではなく、
一発でスカッと解決することが、
まずクライマックスの結末に求められていることだと思う。
鮮やかな解決、見事な解決、唸る解決。
それは今までに張ってきた伏線を利用することが多い。
むしろ、今までの伏線全部が一度に解決したりすると、
鮮やかな解決になる。
誰もが想像もつかないような、意外な、
全員が膝を打つような納得度の、
そしてそれしか考えられない、見事な解決をしよう。
一撃で解決すると気持ちがいい。
(何度か書いているが、「北北西に進路をとれ」のラスト、
ラシュモア山の解決からのラストシーンは見事だ。
それは一種の省略の面白さでもある)
そして、同時に、主人公の内的問題も、
その解決で解決することが、
感情移入のカタルシスを生む。
外的問題と内的問題は、主人公の中では渾然一体となっていることもある。
つまりは、クライマックスは、
そのモヤモヤを、一発でスカッと晴れさせるのがよい。
全ての謎(伏線)がそこで解けたとき、
なるほど!と唸る、拍手したくなる解決になるのだ。
(これまた何度か書いているが、「ソウ」のここはほんとに見事だ)
特に、最初に出したままの謎(伏線)が解決することが、
一番腑に落ちる感じがすることは、経験則である。
その落ち方を、研究しよう。
世の中にはどんな見事な解決があるかを知ろう。
それは何故素晴らしく、腑に落ちるかを、
自分の言葉でとらえよう。
それは大抵最初の謎(伏線)を解決している筈だ。
もちろん、それだけではなく、
今までのこと全てが解決するから、
クライマックスは気持ちいいのだ。
ああなるほど、これで話が終わったね、
という感覚は、どう言葉に表現していいか分からないが、
大抵のおはなしにはあるものだ。
それは何となく肌感覚でわかる、みたいな理屈ではない部分のような気がする。
上手く腑に落ちない、下手な話は、
ずっとだらだらやってしまう。
そこからサゲへの切れのよさは、
どれだけ一気にスカッと解決したかどうかで決まると思う。
落ちの切れ、などと表現される。
落ちが切れているかどうかは、
それが一発でスカッと解決した気持ちよさのことだ。
腑に落ちる、とは、つまり納得することだ。
完全に解決した感覚になるように、
クライマックスの落とし所を工夫しよう。
もし終わってもなんだかモヤモヤすることがあるのなら、
それはクライマックスで腑に落ちていないのだ。
なるほど、となるクライマックスの解決をさらに工夫しよう。
完全解決、カタルシスの為にはどうすればいいか、
を考えよう。
何か思いついたら、逆算で前を直すこともある。
カタルシスになりやすいように、問題や伏線の形を変えるのだ。
つまり、クライマックスのカタルシス、腑に落ちる解決は、
何もかも計算ずくなのだ。
(もちろん、脚本というのは、何もかもが計算ずくである。
それを作為的に取られないような、物凄く自然にそうなるように書かれた、計算ずくである)
2014年10月23日
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