2014年10月23日

クライマックスとは、腑に落ちること

いいクライマックスかどうかは、
その解決が腑に落ちるかどうかの、その具合で決まると思う。


どんなに金をかけた大クライマックスだろうが、
どんなにミニマムな芝居だろうが、
今までの問題を全て、今までの伏線を全て、
一発で全解決するとき、
おそらくすとんと腑に落ちるのだと思う。

逆にいまいち腑に落ちないのは、
それで解決したことになるかなあ、という微妙な解決だったり、
これ解決、そしてこれ解決、とだらだら解決が続いたり、
あれどうなったんだっけ、という解決してない伏線が残った時だ。


問題には外的問題と内的問題がある。

外的問題とは、冒頭に起こった事件の解決だ。
お話全てを通じ、ターニングポイントをいくつも経ながら焦点や目先が変わりながら、
根本のこの本題を解決しないと話が終わらないというものだ。
(外的問題は、冒頭の事件ではまだその端緒で、
第一ターニングポイントではセンタークエスチョンの形で大体の形がみえ、
第二ターニングポイントではあとひとつの解決までいけばよい、
となっているはずだ)

それは、サブ問題に分岐したりして、
最終的には当初想像もつかなかったような、
複雑な問題に発展している筈だ。
とにかくこれが、だらだらとではなく、
一発でスカッと解決することが、
まずクライマックスの結末に求められていることだと思う。

鮮やかな解決、見事な解決、唸る解決。
それは今までに張ってきた伏線を利用することが多い。
むしろ、今までの伏線全部が一度に解決したりすると、
鮮やかな解決になる。

誰もが想像もつかないような、意外な、
全員が膝を打つような納得度の、
そしてそれしか考えられない、見事な解決をしよう。
一撃で解決すると気持ちがいい。
(何度か書いているが、「北北西に進路をとれ」のラスト、
ラシュモア山の解決からのラストシーンは見事だ。
それは一種の省略の面白さでもある)

そして、同時に、主人公の内的問題も、
その解決で解決することが、
感情移入のカタルシスを生む。

外的問題と内的問題は、主人公の中では渾然一体となっていることもある。
つまりは、クライマックスは、
そのモヤモヤを、一発でスカッと晴れさせるのがよい。


全ての謎(伏線)がそこで解けたとき、
なるほど!と唸る、拍手したくなる解決になるのだ。
(これまた何度か書いているが、「ソウ」のここはほんとに見事だ)

特に、最初に出したままの謎(伏線)が解決することが、
一番腑に落ちる感じがすることは、経験則である。


その落ち方を、研究しよう。
世の中にはどんな見事な解決があるかを知ろう。
それは何故素晴らしく、腑に落ちるかを、
自分の言葉でとらえよう。
それは大抵最初の謎(伏線)を解決している筈だ。


もちろん、それだけではなく、
今までのこと全てが解決するから、
クライマックスは気持ちいいのだ。



ああなるほど、これで話が終わったね、
という感覚は、どう言葉に表現していいか分からないが、
大抵のおはなしにはあるものだ。
それは何となく肌感覚でわかる、みたいな理屈ではない部分のような気がする。

上手く腑に落ちない、下手な話は、
ずっとだらだらやってしまう。
そこからサゲへの切れのよさは、
どれだけ一気にスカッと解決したかどうかで決まると思う。


落ちの切れ、などと表現される。
落ちが切れているかどうかは、
それが一発でスカッと解決した気持ちよさのことだ。

腑に落ちる、とは、つまり納得することだ。
完全に解決した感覚になるように、
クライマックスの落とし所を工夫しよう。


もし終わってもなんだかモヤモヤすることがあるのなら、
それはクライマックスで腑に落ちていないのだ。
なるほど、となるクライマックスの解決をさらに工夫しよう。
完全解決、カタルシスの為にはどうすればいいか、
を考えよう。
何か思いついたら、逆算で前を直すこともある。
カタルシスになりやすいように、問題や伏線の形を変えるのだ。

つまり、クライマックスのカタルシス、腑に落ちる解決は、
何もかも計算ずくなのだ。
(もちろん、脚本というのは、何もかもが計算ずくである。
それを作為的に取られないような、物凄く自然にそうなるように書かれた、計算ずくである)
posted by おおおかとしひこ at 12:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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