分析することと、思いつくことだと思う。
分析は重要だ。
それが一体どういう形をしているのか、
正確にとらえるのは分析しかない。
それがどういう意味なのか、
それが世間でどうとらえられるか、
普通こうだがこれはどれくらい特別か、
似てるものとの違い、
理想とすることと出来上がったもののギャップ、
何をなし得ていて、何が足りないか、
それは評価と分析を正確にすることでしか、
把握できない。
あなたは評論家ではないから、
何枚にも至る評論文を書く必要はない。
一言や数行、ときにペラ一枚に、文章で繋がってなくて、
単語の羅列でもいいから、分析は正確にやるべきだ。
ちなみに、映画評論をやることは、
映画分析の実力をつける上で大変有用である。
名作も沢山見れるし、その構造を分析出来るし。
何が本質かを見極める力もつく。
ただ、評論力が高ければ高いほど、自作のレベルが低いときに、
とても傷つくことになる。
それでも尚高みを目指してつくる人は偉いと思う。
その評論力を、自作を貶める為にでなく、
自作をよりよくすることに使うとよい。
ダメだとしたらどうダメか。何がダメか。
どこが良くなると良くなるか。
過去の傑作、名作、秀作を見ているとここで生きる。
こういう良いのがあったが、それはどうやっていたか。
理想がわかる。
目指すべき所が明確になればなるほど、
人は力を発揮しやすい。(これは物語の中でも同じ)
あとは、思いつくだけだ。
思いつく力自体は鍛えられないと思う。
神の降臨だからだ。
考えた時間に比例するわけでも、経験がものを言うわけではない。
粘って、思いつきを拾うまでやるしかない。
経験的なやり方があって、
さんざん考えて、全ての可能性を考えつくして、
それでも出ず、翌朝に思いつくパターンがある。
脳の引き出しを全部開けて確認する、と僕はとらえているが、
何もかもひとつずつチェックし終わって、
一回寝ると、それらが頭のなかで繋がりやすくなるのだと思う。
この方向に向かって考えるのが、
理想の答えが出やすい、と方向づけることを、
ディレクション(元々の意味は遠くを指差し、いく道を示すこと)
という。
ディレクターとは指差す人だ、は師匠橋本日出世の言葉だ。
(一回指差したらその方向を決して変えるな、とも言った。
ふらふらするのはチームが負担だ。
だからディレクターとは決断でもある。ぶれないことが仕事なのだ。
ところが最近の広告はぶれることが前提になってしまった。
或いは、ゴールイメージをディレクターでない人がディレクターに押しつけている)
思いつきにはディレクションがあると、やりやすい。
違うことを考えなくてすむからだ。
(考えやすいディレクションと、考えにくいディレクションがある。
ディレクションも才能や経験がいる)
その方向性で考えていても、
全然違うことを思いつくこともある。
それが良いか悪いかは、また分析にかければよい。
現在のディレクションがうまく行かなかった
(理想が実現するとは限らず、そのディレクションが正しいとも限らない)
ときの、プランBになりうる。
プランBを許容すると、プランCやDも出て、
結局上手くいくときと、とっちらかるときがある。
それも神待ちだ。
また、思いつくには、
理想を分解して、サブゴールをつくってもよい。
「世界平和を達成する方法を考える」ことは壮大すぎるが、
「戦争は酷いと訴える」「平和の良さを伝える」
「この家の中での平和を達成する」などの、
サブゴールを達成することは出来そうだ。
それをもって代わりとする場合が、現実的には多い。
全ての映画は、「永遠に残る傑作をつくる」ことのサブゴールでもある。
さて。
自作を考えよう。
分析しよう。そして、思いつこう。
それを繰り返して、夢見た理想へ近づこう。
コツコツと、やるかやらないかだけだ。
だから僕は今日も考えている。
合ってるかどうかは分からないけど。
2014年10月23日
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