2014年10月23日

考えるとはどういうことか

分析することと、思いつくことだと思う。


分析は重要だ。
それが一体どういう形をしているのか、
正確にとらえるのは分析しかない。

それがどういう意味なのか、
それが世間でどうとらえられるか、
普通こうだがこれはどれくらい特別か、
似てるものとの違い、
理想とすることと出来上がったもののギャップ、
何をなし得ていて、何が足りないか、
それは評価と分析を正確にすることでしか、
把握できない。

あなたは評論家ではないから、
何枚にも至る評論文を書く必要はない。
一言や数行、ときにペラ一枚に、文章で繋がってなくて、
単語の羅列でもいいから、分析は正確にやるべきだ。

ちなみに、映画評論をやることは、
映画分析の実力をつける上で大変有用である。
名作も沢山見れるし、その構造を分析出来るし。
何が本質かを見極める力もつく。

ただ、評論力が高ければ高いほど、自作のレベルが低いときに、
とても傷つくことになる。
それでも尚高みを目指してつくる人は偉いと思う。


その評論力を、自作を貶める為にでなく、
自作をよりよくすることに使うとよい。

ダメだとしたらどうダメか。何がダメか。
どこが良くなると良くなるか。


過去の傑作、名作、秀作を見ているとここで生きる。
こういう良いのがあったが、それはどうやっていたか。
理想がわかる。
目指すべき所が明確になればなるほど、
人は力を発揮しやすい。(これは物語の中でも同じ)

あとは、思いつくだけだ。


思いつく力自体は鍛えられないと思う。
神の降臨だからだ。
考えた時間に比例するわけでも、経験がものを言うわけではない。
粘って、思いつきを拾うまでやるしかない。

経験的なやり方があって、
さんざん考えて、全ての可能性を考えつくして、
それでも出ず、翌朝に思いつくパターンがある。
脳の引き出しを全部開けて確認する、と僕はとらえているが、
何もかもひとつずつチェックし終わって、
一回寝ると、それらが頭のなかで繋がりやすくなるのだと思う。


この方向に向かって考えるのが、
理想の答えが出やすい、と方向づけることを、
ディレクション(元々の意味は遠くを指差し、いく道を示すこと)
という。
ディレクターとは指差す人だ、は師匠橋本日出世の言葉だ。
(一回指差したらその方向を決して変えるな、とも言った。
ふらふらするのはチームが負担だ。
だからディレクターとは決断でもある。ぶれないことが仕事なのだ。
ところが最近の広告はぶれることが前提になってしまった。
或いは、ゴールイメージをディレクターでない人がディレクターに押しつけている)


思いつきにはディレクションがあると、やりやすい。
違うことを考えなくてすむからだ。
(考えやすいディレクションと、考えにくいディレクションがある。
ディレクションも才能や経験がいる)

その方向性で考えていても、
全然違うことを思いつくこともある。
それが良いか悪いかは、また分析にかければよい。
現在のディレクションがうまく行かなかった
(理想が実現するとは限らず、そのディレクションが正しいとも限らない)
ときの、プランBになりうる。
プランBを許容すると、プランCやDも出て、
結局上手くいくときと、とっちらかるときがある。
それも神待ちだ。


また、思いつくには、
理想を分解して、サブゴールをつくってもよい。

「世界平和を達成する方法を考える」ことは壮大すぎるが、
「戦争は酷いと訴える」「平和の良さを伝える」
「この家の中での平和を達成する」などの、
サブゴールを達成することは出来そうだ。
それをもって代わりとする場合が、現実的には多い。

全ての映画は、「永遠に残る傑作をつくる」ことのサブゴールでもある。


さて。

自作を考えよう。
分析しよう。そして、思いつこう。
それを繰り返して、夢見た理想へ近づこう。
コツコツと、やるかやらないかだけだ。

だから僕は今日も考えている。
合ってるかどうかは分からないけど。
posted by おおおかとしひこ at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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