いい映画はいい余韻が残る。
その正体は一体なんだろう。
僕は、その世界にどっぷり浸かったことの証拠、
だと思っている。
最初から余韻を目指してもそういうものは作れないと思う。
余韻が残るようないい作品を書け、は、
結果論でものを語るよくない目標だ。
(時々プロデューサーにそういう指示をする人がいる)
余韻は、その作品世界にどっぷり浸かったときに起こる。
頭のなかで反芻したり、その後のことに思いを馳せる時間のことだと思う。
満足すればするほど、頭のなかでもう一回(数回)それを反芻したくなる。
それが余韻だ。
満足の反芻行為だ。
ところが、途中まですごくよくて、
後半に納得のいかない中途半端な作品は、
解決しなかったモヤモヤがいつまでも残る。
これは余韻ではない。
作品世界に意識を飛ばして、
現実世界に上手く帰れなかったことの、
一種の心の傷である。
エヴァンゲリオン(新劇場版でないもの)は、
そのような失敗作だと思っている。
作品世界に折角入り込んだのに、
僕はまだそこから上手く現実に帰ってこれていない。
トラウマの克服は時間が曖昧に忘れさせるように、
時間を経て忘れるしかないのである。
(でも時々フラッシュバックが起こる。
セカンドインパクトってなんだっけ、とか、使徒って結局なんだったのか、とか、
綾波って巨大化したんだっけ、とか、ロンギヌスの槍ってなんだっけとか、
誰がなんのためにエヴァを量産したんだっけ、とか。
ついつい考え出してしまう。そしてついついこうやって書いてしまう)
人は、あることに意味を与えることで、
何かを凝縮してしまいこむ。
中途半端に失敗した作品は、
しまいこみかたが分からず、傷を残すのだ。
そして壊れたレコードのように、同じところをぐるぐる回るのだ。
(この比喩もそのうち死語になるだろう)
エヴァに関して言えば、それを商売にした感がある。
トラウマをちょいちょいフラッシュバックさせては、
その治療に金をとりつづける、悪徳精神病院のようなものだ。
僕がバッドエンドに否定的なのは、
意味としてしまうことに殆ど意味がないからだ。
世の中は酷いとか無常であるなんて、
既に知っていることであり、その意味を再確認することに意味はない。
(あるとすると、ハッピーエンドしかないジャンルに、
初めてバッドエンドを投入して衝撃を浴びせるときだけだ)
俺も不幸だからお前も不幸になれ、という、呪いしか感じない。
それは余韻でもなんでもない。
あ、はい、という確認作業にすぎない。
俺はこんなバッドに気づいたのだ凄いだろうと言われても、
もっと凄いのは見たよ、となる。
(僕のなかでの最高のバッドエンドは、原作デビルマンだろう。
しかし、少年ヒーローものに、初めてバッドエンドを持ち込んだ、
という僕の中の衝撃の大きさだけのような気もする)
余韻とは、カタルシスの反芻だ。
自分が生まれ変わるほどの認識の変化の衝撃が、
凄くよかったことの反芻だ。
自分だったらどうかと考えたり、感情移入が深かったり、
自分とシンクロが高い場合にそれは起こる。
それが現実世界に帰りつつあるとき、
その意味を反芻しながら凝縮していくことが、
余韻の時間ではないかと思う。
エンドロールに、その余韻を壊すタイアップ曲なんて最低だ。
全監督はタイアップを拒否せよ。次こそはタイアップを拒否してやる。
そもそも深い余韻がないのなら、そもそも意味がないが。
2014年10月23日
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