2014年10月23日

余韻とはなにか

いい映画はいい余韻が残る。
その正体は一体なんだろう。

僕は、その世界にどっぷり浸かったことの証拠、
だと思っている。


最初から余韻を目指してもそういうものは作れないと思う。
余韻が残るようないい作品を書け、は、
結果論でものを語るよくない目標だ。
(時々プロデューサーにそういう指示をする人がいる)

余韻は、その作品世界にどっぷり浸かったときに起こる。
頭のなかで反芻したり、その後のことに思いを馳せる時間のことだと思う。

満足すればするほど、頭のなかでもう一回(数回)それを反芻したくなる。
それが余韻だ。
満足の反芻行為だ。


ところが、途中まですごくよくて、
後半に納得のいかない中途半端な作品は、
解決しなかったモヤモヤがいつまでも残る。
これは余韻ではない。
作品世界に意識を飛ばして、
現実世界に上手く帰れなかったことの、
一種の心の傷である。

エヴァンゲリオン(新劇場版でないもの)は、
そのような失敗作だと思っている。
作品世界に折角入り込んだのに、
僕はまだそこから上手く現実に帰ってこれていない。
トラウマの克服は時間が曖昧に忘れさせるように、
時間を経て忘れるしかないのである。
(でも時々フラッシュバックが起こる。
セカンドインパクトってなんだっけ、とか、使徒って結局なんだったのか、とか、
綾波って巨大化したんだっけ、とか、ロンギヌスの槍ってなんだっけとか、
誰がなんのためにエヴァを量産したんだっけ、とか。
ついつい考え出してしまう。そしてついついこうやって書いてしまう)
人は、あることに意味を与えることで、
何かを凝縮してしまいこむ。
中途半端に失敗した作品は、
しまいこみかたが分からず、傷を残すのだ。
そして壊れたレコードのように、同じところをぐるぐる回るのだ。
(この比喩もそのうち死語になるだろう)

エヴァに関して言えば、それを商売にした感がある。
トラウマをちょいちょいフラッシュバックさせては、
その治療に金をとりつづける、悪徳精神病院のようなものだ。


僕がバッドエンドに否定的なのは、
意味としてしまうことに殆ど意味がないからだ。
世の中は酷いとか無常であるなんて、
既に知っていることであり、その意味を再確認することに意味はない。
(あるとすると、ハッピーエンドしかないジャンルに、
初めてバッドエンドを投入して衝撃を浴びせるときだけだ)
俺も不幸だからお前も不幸になれ、という、呪いしか感じない。

それは余韻でもなんでもない。
あ、はい、という確認作業にすぎない。
俺はこんなバッドに気づいたのだ凄いだろうと言われても、
もっと凄いのは見たよ、となる。
(僕のなかでの最高のバッドエンドは、原作デビルマンだろう。
しかし、少年ヒーローものに、初めてバッドエンドを持ち込んだ、
という僕の中の衝撃の大きさだけのような気もする)


余韻とは、カタルシスの反芻だ。
自分が生まれ変わるほどの認識の変化の衝撃が、
凄くよかったことの反芻だ。
自分だったらどうかと考えたり、感情移入が深かったり、
自分とシンクロが高い場合にそれは起こる。
それが現実世界に帰りつつあるとき、
その意味を反芻しながら凝縮していくことが、
余韻の時間ではないかと思う。

エンドロールに、その余韻を壊すタイアップ曲なんて最低だ。
全監督はタイアップを拒否せよ。次こそはタイアップを拒否してやる。
そもそも深い余韻がないのなら、そもそも意味がないが。
posted by おおおかとしひこ at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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