ある程度書き慣れてくると、
構成のテンポが分かってくるものだ。
この感覚を分からないと、
「今、全体のどこを書いているのか」が分からなくなり、
自分を見失って挫折することもある。
今俺は全体のこの辺を書いてるから、
という感覚は、
じゃここまで説明する必要はなく省略してしまえ、
という判断や、
あとあとこうなることは分かってるから、今暴走ぎみにやってもOK、
という判断を可能にする。
執筆中は部分だけしか見えていないから、
何もかも丁寧にやろうとしたり、
逆にスピードアップさせようとして省略気味に書いてしまったりするものだ。
これが、「今自分は全体のここを書いていて、ここは全体に対してこういう性格のパートだ」
を自覚していると、初手から書き方が違ってくるものだ。
それが出来ないと、とにかく書くことだけをやってしまい、
あとで通し読みしてみると、
余計な丁寧だったり、省略しすぎだったり、
ただ詰まらなかったりするものである。
今、全体からすればここは究極に悲しいパートだ、とか、
今、全体からすればここは色々な無駄話が欲しいパートだ、とか、
今、全体からすればここでしかこの人物の個性を発揮出来ない、とか、
今、全体からすればここはさっさと次に展開するべき、とか、
全体の流れと今との役割を自覚しながら、
書けるようになるのがよい。
しかし、これは中級者以上だろう。
魂が入りながらも冷めてなきゃいけないからだ。
嘘をつきながら女を夢中に口説ける人はこの技能が高いかも知れない。
ぼくは両方を精度良く出来ないたちなので、
このブロックは、本気でこういう嘘をつく、
と最初に決めてから本気の嘘をつきはじめることにしている。
(或いは、ブロックを書き終えた大分あと、
あのブロックは、こうあるべきだった、と戻ったりする)
更に慣れてくると、
構成がテンポとして身についてくる。
例えば30分なら、大体のセットアップに10分、展開部に10分、
クライマックスと落ちに10分、の1:1:1テンポになる。
(これは僕のリズムかも知れないが)
そうすると、
例えばこのセットアップには時間がかかりすぎてる(要素が多い)とか、
このセットアップじゃ足りない(感情の深さとか、伏線とか)とか、
展開部が少ないとか多いとか、
「書きながら」分かるようになってくる。
ぼくは車幅感覚に例えるが、収まる収まらないの感覚が出来てくるのだ。
一種の慣れであり、固定化でもある。
この時間配分の上手さは、書いた数に比例すると思う。
例えば「多分、大丈夫」では、
5分おきに三幕構成になっていて、
(先に引用した講評では、5分と10分あたりで、空気が変わると書いてある。
それは言うまでもなく幕切れの大ターニングポイントのことだ。
焦点がそこで変わり、全体の空気も結果的に変わるのだ)
また、7分過ぎにミッドポイント(池やんの嘘の告白)がはじまるようになっている。
そうなるように、脚本も書いてある。
これは話の規模と、尺が上手くリンクしている。
嘘ボールの話がこれより前に来るなら、きっともう一仕掛けいるだろうし、
嘘ボールの話がこれよりあとに来るなら、なんらかの伏線になることが
そこに描かれるべきだ。(しかしクライマックスが足りなくなるだろう)
構成の上手さとは、話のテンポの上手さに比例する。
テンポが悪いのは、
大抵全体に対して、多すぎたり少なすぎたりするのである。
(クォータースターコンテストの参加作品は、
そのような話のテンポの悪いものが多いと思う。そこは審査基準ではなさそうだが)
ストーリーテリングとは、
上手くストーリーを語ることだ。
そのストーリーのテンポとは、
全体のバランスがきれいなことが必要条件なのだ。
ストーリーのテンポは、音楽ではないので、
乗っているとかテンポがいいとかは無自覚だ。
(会話のテンポがいい、などの、ミクロ単位では知覚される)
話のテンポとは、抵抗がなく、
ストーリーがスルッと入ってきている状態のことを言う。
ストーリーのテンポは、悪いときには知覚される。
なんかテンポが悪いなあ、 という形で。
いいテンポをつくろう。
自分の話の仕方のテンポを知ろう。
他人の話のテンポを研究しよう。
何に何分かかっているかを、はかろう。
小説は分からないが、
リアルタイムで見る映画には、
全体から見てここは何分ぐらいかけるべき、
という適切な長さがある。
それを、体に叩き込み、書いている途中で無意識に自覚出来るまで、
習練しよう。
それは、数稽古で無意識化するしかない。
2014年10月26日
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